プロローグ×紺野向葵

 いわゆる、敷かれたレールの上を歩く生活に辟易していた。
 なにをするにも規範通りの、誰かに求められた自分を演じている日々を17年も繰り返した。おかげさまで、なにをしようとしても果たしてそれが本当に「自分のしたい事」なのか?わからなくなっていた。
 窮屈で息苦しい。首に鎖でも付けられているよう。けれど、喉に手を伸ばしても何が付いているわけでもない。
 苦しいと思っているのは自分の妄想に過ぎないのかもしれない。本当にそうなのか?ああ、もう、これは一体誰の思考?
 曖昧で矛盾に満ちた頭の中を空っぽに出来たらいいのに。

ーーチャリーン。
 小銭の落ちる音がして、ふと目を向けた。二、三メートル先の自販機の前で、明るい茶髪の男が小銭をぶちまけている。その内の一つが向葵(アオイ)の足元に転がってきたので拾い上げる。
「大丈夫ですか」
「あー、うんありがと」
 男は大きめの黒いジャージを着ている。そのジャージは金色の英文がデザインとして入っていて、背中には大きく髑髏が描かれている。
 ヤンキーだろう、関わってはいけない。頭の片隅で警鐘が鳴ったが、しゃがみ込んで不器用に小銭を拾う姿に放って置けなくなった。
 向葵もしゃがんで小銭を拾うと、男は嬉しそうに笑う。
「なあ、それ」
 男は向葵を指差した。正確には、向葵の着ている制服を指差している。
「荒天高校の制服だろ。オレもそこ、卒業生」
「え、マジですか」
 男の言葉に、向葵は目を丸くした。向葵は確かに、私立荒天高校の生徒だった。名の知れた高校だし、現在地も学校の通学路上にある自販機だったから、そこの学生である事を当てられたのは何も不思議ではない。
 むしろ、驚くべきは卒業生だという彼の発言だった。
 私立荒天高校は中高一貫の私立高校だった。中学に入ってさえすればエスカレーター式に高校にも入れる。が、中学の入試は日本でもトップクラスの難関校だった。
 高校から入ろうとすれば、その倍率はさらに跳ね上がる。大学入試レベルとも言われる入試問題を高得点でマークしたところで、毎年ごく僅かの募集しかなく、合格は殆ど運だとすら言われていた。
 どちらにしろ、目の前にいる男がそこまで賢そうには見えなかった。
「ニノ先まだいる? オレサッカー部だったんだけど」
「! います、まだ現役でめっちゃ鬼顧問してますよ、俺もちょっと前までサッカー部で」
 よく知った名前に、思わずテンションが上がった。何代上の先輩だろう?そう年は離れていないが、少し上の世代は全国も経験している。彼は、その時いたのだろうか。
「ちょっと前まで? 君今何年生? 三年だとしても、まだ引退前でしょ」
「あ……えと、」
 彼の言葉に顔が強張った。そうだった。成績の落ちた向葵は親に言われ、サッカー部を辞めたのだ。夏の選抜大会中にも関わらず。
 家の恥だと家族から散々に言われ、部活仲間からは口も聞いてもらえない。どこにもない居場所に、しがみつこうと勉強に没頭しても結果は芳しくない。
「なあ」
 思い出すとストレスで吐きそうになった向葵に、男は優しく笑いかける。
「せっかくだしカラオケにでも行こうぜ。気晴らしになるから」
「あ……はい」
 一瞬戸惑ったが、手を握られ、その温もりに泣きそうになった向葵はただ頷いた。
 今初めて呼吸をしたような、そんな気分だった。

「うわ、これ苦い! 向葵ちょっと飲んでみろよ」
「え? うっわ、ほんとだなにこれ」
「な?」

「あっ、あ、あっ、ああっ」
「気持ちいだろ、向葵、なあ、ほら、」
「ああっああああっ」

「ーーさん、お客さん、大丈夫ですか」
「っえ、あ、あ……」
 ハッと目を覚ます。頭がぼんやりとして、変な気分だった。さっきまで何をしていたのか、霞みがかったように思い出せない。
 向葵を揺り動かして起こしたのは、カラオケの店員だった。どうやら、カラオケの個室で寝入っていたようだった。
「もう閉店なんで」
「え? うわ、やべ」
 携帯を見ると午前5時を過ぎており、着信とメールの通知が血の気の引く程入っていた。無断外泊など、家に帰ったらどれだけ叱られるか。
「あの、連れがいたと思うんですけど」
「ああ、お客さんが寝ちゃったら帰ったみたいで。代金はすでに頂いてますから」
「あ、そうですか……」
 念のため鞄の中や財布を確認しても、盗まれたものはないようだった。でも、先に帰ってしまうなんて、起こしてくれれば良かったのに。
 あれ、でもそもそもなんで寝てしまったんだっけ?それに少し、頭が痛くて気持ち悪い。
 向葵は頭を抑えながら立ち上がろうとすると、膝からカクンと力が抜けて床に座り込んでしまった。下半身が鉛のように重く、痺れてうまく動けなかった。
 どうしてだろう、さっきまであんなに楽しかった気がするのに、何があったのかまるで思い出せない。
 なにか忘れている気がする。

 向葵は店を後にして、電車のホームで始発が来るのを待った。立っているのが辛くて、ホームのベンチに座る。気持ち悪さが取れなくて目を瞑ると、脳の奥に熱く焦げ付いたものが浮かび上がる。
『向葵ーー』
 僅かな記憶が耳元で囁く。
『向葵、』
 あまり思い出したくないような気がする。でも、思い出さなきゃいけない気がした。
『向葵、なあ』

『オレのちんこ気持ちいい? なあ、向葵、セックス、気持ちいいだろ』

「あ……あ……?」