鳶色小豆×プロローグ

「やめろ!!! 紅谷!!!」
 そう叫んだのはキャプテンだった。
 その後ろで魔女の笑い声みたいなのがワンワンと響いて聞こえた。
 僕は自分が「やめて」とか細く言った気がした。でも紅谷には届いていないようだ。
 事件の中心に僕はいたのに、何一つ理解出来ないで、そのくせどこか冷静になっていた。
 紅谷の右拳が振り下ろされる瞬間さえ、スローモーションに見えた。
 やめて、紅谷、やめて、助けて、僕を殺さないでーー

「ーーろ先生、鳶色(とびいろ)先生、大丈夫ですか? うなされて叫んでましたよ」
 揺さぶり起こされて、ハッと意識が覚醒する。僕の仕事を補佐する看護士が、心配そうに僕を見つめていた。
「ご、ごめん、ちょっと怖い夢を見て。なんて叫んでた?」
 僕は診察椅子に座りなおし、乱れた机の上を整頓した。昼休憩の時、少し仮眠をと思い椅子に座ったまま目をつぶったのだが。寝心地が悪かったからだろう、悪夢を見たらしい。
「えっと、なんでしたっけ……べに、とかなんとか。やめて、と何度も」
 まさにさっきまで見ていた夢のそれだった。僕は誤魔化すように笑い、看護士の肩を叩く。
「なんだろうね、口紅でも塗られそうになったのかな?」
 ははは、なんて笑うと看護士も空気を読んで笑った。
「もう大丈夫だから。君も休憩時間まだあるだろ。少しでも休んでおいで」
「……はい、先生もまだ休んでてくださいよ」
「うん、ありがとう」
 僕が返事をすると、看護士は部屋から出て行こうと扉に向かった。
「あ、先生なら、口紅も似合うと思いますよ」
「ははは、嬉しくないなあ」

 パタン、と扉が閉まり、ホッと息を吐く。
 酷い夢だった。春も近い頃になるといつも見る夢だった。
 高校三年の冬。高校でサッカー部の副キャプテンをしていた僕は紅谷灯と出会った。
 一年生ながらにずば抜けた身体能力とサッカーセンスを持ち合わせ、僕たちを全国優勝に導いた男。
 荒天高校サッカー部は強くもなく弱くもない、毎年県でもベスト8がやっとの中堅どころだった。
 また今年も変わらないだろう、そんな僕たちを引っ掻き回す春の嵐のように現れた彼は、僕の心とポジションを奪っていった。
 サッカーはチームスポーツだから、一人だけが抜きん出ていても勝てない。けれと紅谷灯は違った。その能力を遺憾なく発揮し、周りを巻き込んだ。
 きっと彼みたいなのをカリスマと呼ぶのだろう。
 ポジションを奪われた悔しさよりも、彼の素晴らしさに心惹かれたのだ。
 そんな輝かしい青春は一夜にして壊される。
 冬の選手権が迫った頃、紅谷灯は突然部活にも学校にも現れなくなった。今まで無断欠席はおろか、遅刻すらしなかった彼だ。怒りより心配の方が上回っていた。
 そうして僕とキャプテンが確認の為に紅谷灯の家を訪ねたのは、日も暮れた夕方過ぎ。住宅街の一角に、彼の家はある。
 ピンポーン、ピンポーン。
 普通の一軒家に紅谷の表札。インターホンを鳴らすが反応はない。家は全体的に薄暗く、人がいないようにも見えた。
 ガタン、ガシャン!ガシャン!
 突然何かが割れる音に僕とキャプテンは顔を見合わせた。
 何かあったのかもしれない。どうしたら?とにかく玄関のドアノブを回してみると、扉はいとも容易く開かれた。
「……紅谷、いるのか?」
「紅谷?」
 覗き込んでみたが、薄暗くてよく見えない。もう一歩、踏み出してみると、足元で何かを踏んでしまい、身体がギクリと固まる。
「靴だ」
「靴……」
 キャプテンの言葉に、確認するとたしかに靴だった。けれど様子がおかしい。何足もの靴が玄関に上も下もなく放り投げられている。
 なんだ、これは。そう思う頃には目が暗さに慣れてきていて、玄関から続く廊下の異変に気付く。
 無秩序に物の散乱する廊下。衣服に割れた食器、もはや、なにがあるのか手に取らなければわからない。
「紅谷……」
「ああああああああ」
「ヒッ」
 突然の絶叫に身が竦んだ。キャプテンが何かを叫ぶ。危ないとか、紅谷とか、そんな事を言っていた気がする。
 がごっ。
「いっ……」
 背中と後頭部が壁に打ち付けられ、息が詰まった。誰とか何とかを考える余裕もない。ただただ衝撃的な恐怖が僕を襲う。
「やめろ、紅谷! 紅谷!!」
 がつっ、ごつ。
「うっ、ぐ、」
 顔を中心に殴られていたとわかったのは、キャプテンが紅谷の腕を掴んで止めてからだった。けれど、紅谷は恐ろしい程の力で振り切り、また僕に拳を振るう。
 腕で顔を覆っても、その上から執拗に殴られた。
 怖い、怖い、怖い、助けて。

 そのうち、騒ぎを聞きつけた近所の人が警察を呼んだらしい。僕はやっぱり、何が起きているのかもわからず混乱のままにいた。
 病院に連れて行かれて、一時的に目が見えなくなっている事がわかった。
 でも、そんな事よりも僕は、人が怖くなっていた。対人恐怖症に陥っていた。

 大学受験に失敗した僕は、紅谷との事件を引きずったまま、二年三年と浪人を繰り返した。
 人が怖い。外に出るのが怖い。家の中すら安全かわからない。
 何があったのか、説明はないまま紅谷は僕の前から消えた。僕の中に深い傷だけを残して。
 吹っ切れたのは四年目の受験を終えてからだった。僕を奮い立たせるのは怒りと復讐だった。
 高校生のままの紅谷が、僕の中で真っ赤に燃える。

「紅谷灯……」
 ふと、机の上に置かれたカルテが目に入る。休憩中に置かれたらしい。
 名前と年齢がすぐさま彼本人だと教えてくれた。
 僕は人知れずほくそ笑む。これは神さまが僕にくれたチャンスだと。
 この時のために、僕は今まで生きてきたのだと。