どこから歯車がズレてしまったのか。こんなはずじゃなかったのに。
でも、出会った事を、ぼくたちの関係を否定したくなかった。
ぼくは人生で一番幸せな時を過ごしていたのだから。
男しか愛せない自分のセクシャルを受け入れるのに27年かかった。同性愛者の自分を否定し、異性愛者だと思い込んで過ごす日々。まるで自分はエイリアンで、バレないようこそこそしている。そんな自分に嫌気がさした。
どうせ子供も成せないし、未来のない自分は生きていたってしょうがない。短絡的に生きるか死ぬかになるのは馬鹿馬鹿しいと思うが、ぼくはもう、全てが煩わしくなりつつあった。
でも、最後に一度だけ。ぼくはそう思ってネットの出会い系サイトを覗いた。
発展場や二丁目に行けるほどの勇気もない。したいのはセックスではなく、恋愛だった。
自分のセクシャルに怯えて、まともに人を好きになれた事がない。人生で最後でいいから恋がしたい。
すがる思いでサイトに書き込む。ぼくだって恋がしたい。
浅葱愛露(あさぎあいろ)に出会ったのは、その出会い系サイトを通してだった。
ぼくが書き込むと、色んな人が返事をくれた。セックス目的の人もいたし、恋愛したいぼくと同じ気持ちの人もいた。
恋愛したい人と何度かやり取りをしてみたけれど、どうしても合わなかった。
仕方のない事だけれど、心根の堕ちたぼくには、積極的で前向きな彼らの感じが苦手だった。
そんな折、なんとなく興味を惹かれたプロフィールの浅葱が目に付く。他の人と何かが大きく違ったわけではない。
自分と同じ地域に住んでいて、年も同じだった。最近恋人を亡くしたから少し誰かと話がしたい。
そんな憂いを帯びた自己紹介文が気になった。
『ぼくと少しお話しませんか』
『いいですよ』
そんな会話からぼくたちは始めた。
他愛もない会話だった。夜寝る前に、一言二言。
ー今日はなんだか眠れません。
ー今日は満月で明るいですからね。
昼休憩に二言三言。
ー今日は蕎麦を食べました。
ーいいなあ、ぼくも食べたかったんですけど、食堂で売り切れていて。
他愛もない事を言うのは少し難しい事だった。誰もがうわべを装っていて、他人に見せる自分を無意識に持っている。
くだらない自分をくだらないと言われたくない。人と触れ合う事をしてこなかったぼくの拗れた感覚は、コミュニケーションの障害となる。
浅葱はなぜか、そんな壁をするりとすり抜けてくるようだった。
歯の浮くようなロマンチックな事を言ってみたり、落ち込んだ言葉を吐いてみたり、そんなぼくの言葉に寄り添ってくれる。
居心地が良かった。それ以上だった。
ぼくも浅葱にとって居心地の良い場所になれるだろうか。彼の亡くした恋人よりも、大切な場所になれるだろうか。
会う約束をしたのは、初めてサイトで会話してから半年後だった。
ぼくの半生を吐露し、彼の喪失に耳を傾ける。どこか気恥ずかしい二週間を過ごし、落ち着いた頃にそれじゃあ会ってみようかと、そんな風に決まった。
地元から二駅離れた喫茶店で待ち合わせをする。そわそわとしながら甘いミルクティーを飲んで待つ。
いよいよ本当に出会ってしまうのだ。
カラン、喫茶店の扉が開く。ぼくは扉に背を向けていて、そちらを振り返らず待った。
キシキシと木張りの床が音を立てる。向かいの椅子が引かれ、人が座った。
「おはよう、ーー」
「あ、おはよう、浅葱……さん」
「いつもチャットしてたから、なんだか初めましてって感じじゃないな」
そこに現れたのは、これまでの優しい物腰の会話からくる想像からは程遠く、ぼくが恋愛するなら全てを強引に攫ってくれるようなそんな人がいいと言う理想ど真ん中の人だった。
つまりぼくは現金にも、出会ったその場の一瞬で恋に落ちた。
それからぼくたちは月に一度、二週間に一度、週に一度、会う日を増やしていく。二人で過ごす時間は居心地が良く、間違いなく互いに惹かれあっていた。
初めて触れ合ったのは、彼の家で一緒に映画を観ていた時だった。
映画の中のヒロインとヒーローがキスをする。そんなシーンをぼーっと観ながら、肩に触れる熱に気付く。ドキドキ、ドキドキと鼓動が高鳴っていく。
そっと隣を見た。電気を消した部屋、スクリーンからの跳ね返りで青白く光る浅葱の顔。柔らかそうな唇に、ぼくも触れてみたくなった。
じっと見つめて、ぼくに気が付いてくれないかと期待する。ここで振り向いて目が合ったら、ぼくたちはきっと運命じゃないかと。
そんな馬鹿馬鹿しい期待に、彼は応えた。バチリと視線が絡んで、それから二人きりしかいないのにこっそりぼくの耳に囁く。
「キス、した事ある?」
その問いに、耳が熱くなった。ぼくは首を振る。人を好きになった事のないぼくはキスをした事がなかった。いつか、王子様とキスをーーそんな憧れを抱いた事もあったけれど。
「じゃあ、試しにしてみよう? きっと、素敵なことだから」
浅葱はそう囁いて、ぼくの顎に指をかけた。恥ずかしいほどの真っ直ぐの視線がぼくを見つめた。
目を瞑ればいいのに、初心なぼくはそんな事も出来なかった。ゆっくりと近付く浅葱に、ああキスしてしまう、と思った時には唇が重なっていた。
確かに、柔らかい熱はなんて素敵なことだろう。
浅葱とキスをしてから、少しづつ関係が深まっていった。浅葱からキスしてみたり、ぼくからキスしてみたり。指を絡めているのに合わせて、舌を絡めたり。
互いの孕んだ熱を布越しに擦り合わせてみたり。浅葱の指が直接ぼくに触れた時には、ぼくは感極まって泣いてしまった。
焦れったいほどゆっくりと、ぼくたちは愛を深めていった。
「はあっ、はあ、はあはあっあああっ」
ばちゅばちゅと奥を突かれて、ぼくはまたイく。ぼくの腕を掴む浅葱の手が熱い。
「ーー」
浅葱が耳元に吐息をかけながらぼくを呼んだ。そのせいでぼくが締め付けてしまったんだろう、浅葱は小さく呻いてぼくの中に吐き出す。
「ふあ、あ……あ、まって、浅葱、もう、もう」
「ーー、ごめん、まだおさまらない」
浅葱が引き抜かれて、それからゴムを付け替えてもう一度挿入される。もう、二度三度繰り返すセックスを、毎日、毎日毎日繰り返していた。
初心だったぼくの身体はすっかり快感に弱くなっていた。今では浅葱が触れるだけで期待して熱を持つような、そんな淫乱な身体になっていた。
本当は疲弊して疲れ切っていたけれど、それでも浅葱に求められるたびに、愛されているのだと喜びが溢れて拒むことが出来なくなっていた。
もうぼくは一週間も会社を無断で休んでいる。軟禁状態だったけど、それが居心地良くもあった。
「俺以外要らないだろ? 俺の事だけ思ってて。起きてる時も眠る時も、夢の中でも。ーー、愛してる」
もう、何かがおかしくなっていたのに、ぼくはそれがおかしいとも思えなかった。
ぼくは浅葱を愛していたし、浅葱もぼくを愛している。それさえあれば何も要らない。浅葱が全て正しい。
「じゃあ、出掛けてくるけど何処にも行かないでね。愛してる、ーー」
スーツを着た浅葱がぼくにキスをした。裸のぼくはぼーっとしながらそれを受け入れる。舌を絡められて、ぼくの熱が疼いた。浅葱はそれを可愛いと笑った。
浅葱は仕事に行く。その間、ぼくは部屋でぼーっとして過ごした。
食事も家事も浅葱がした。ぼくはただ、浅葱に全てを与えられ、セックスをするだけの生き物になっていた。
頭がうまく働かなくて、それがどんなにおかしい事かもわかっていなかった。
早く浅葱が帰ってきてほしい。ぼくを愛してると言って欲しい。ぼくを求めて欲しい。
浅葱がぼくの全てになったように、浅葱もぼくが全てになればいいのに。
どうして仕事になんて行ってしまうんだろう。あ、そうだ、仕事先に連絡しなくちゃ。部屋も解約しちゃおう。携帯は浅葱が壊してしまったからーー……。
浅葱の服を着て部屋を出たのは、何もかもを捨てて浅葱の元に戻る為だった。
ガチャリ、扉を開けて、外の景色にハッと意識が戻った気がした。この生活が、関係がどれだけおかしいのか。
「ーー」
身体が震えた。いつからいたのか、今日だけなのか。いや、きっと毎日、ずっとそこにいたに違いない。
ぼくが部屋から出てくるのを、ずっと待っていたに違いない。
玄関のドアを開けた真横に、スーツ姿の浅葱が立っていた。俯いた顔はよく見えない。ぼくを呼んだ声はいつもとそう違いがないのに、どこか恐ろしい。
「何処にも行くなと言ったのに」
頭を掴まれ、床に打ち付けられる。ああ、どうしよう、ぼくが間違えたんだ。浅葱、浅葱怒らないで、ぼくが間違えた。浅葱の事だけ考えれば良かったんだ。
二、三度頬を張られ、ずるずると引きずってベッドに戻される。
「部屋から出ないんだから服なんて要らないだろ」
浅葱は丁寧にぼくの服を脱がしていった。身体に触れるたびにキスをする。ほら、浅葱は優しい。こんなぼくを許してくれる。ぼくが間違っていたんだ。浅葱、浅葱ごめんなさい。
「そう、ーーが間違っていたんだ。もう間違いなんて起こさないようにしておこうね」
浅葱がクローゼットから何かを取り出して、それでぼくの両手両足をベッドに拘束した。
「可愛いよ、愛してる。ーーだって俺の事愛してるだろ?」
少しの慣らしもなく、浅葱がぼくの中に入った。散々使われた穴でも、潤いが足りず引き攣れて痛い。
「ーー、ーー」
「浅葱、愛してる」
浅葱、浅葱と、奥まで突かれるたびに、うわ言みたいに名前を呼んだ。
愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、
ぼくたちは幸せだったんだ。