持部宮助主・エピローグ

 仕事で使う物を除けば、自分の持ち物なんて殆ど無いようなものだった。
 この病院で五年、鳶色先生の助手として働いてきた。その日々は長くも短い、あっという間の期間だった。
「君まで辞めることなかったのに」
 鳶色先生が言った。ホームのベンチに座り、線路をぼーっと眺めている。
 鳶色先生もまた、俺に負けず劣らず荷物は少なく、と言うより財布と携帯しか持っていない。
 病院を自主退職し、寮から出た時に全て処分してしまったのだ。
「俺の性癖もそろそろバレそうでしたし。それに気付いたんですけど、自分は鳶色先生の下で働くのが楽しかったんだな、と」
「ふうん」
 呆けている鳶色先生の横顔を眺めてから、俺も線路に視線を移す。
 鳶色先生の魂の抜けたような状態はここのところずっとだった。原因は間違いなく紅谷くんだ。
 俺たちが紅谷くんとやったことはとても許される事ではない。けれど、あの時の鳶色先生はとても生き生きしていた。
 だからこそ紅谷くんの移送が決まった時から、目に見えて元気が無くなってしまったのだ。遂には退職を切り出したけれど、それもそうか、と思えた。
 病院を辞めると言った時、鳶色先生は紅谷くんとの因縁を簡単に話してくれた。けれど、そんなのは上辺だけを掬っただけに過ぎない。
 これまでの全ての人生を賭けてきてしまったのだ。それが叶って、鳶色先生はこれからどうするのだろう。
「紅谷のこと、話しただろう」
「はい」
「結局僕は紅谷のことを言い訳にしてきただけなんだ。だって本当に殺したいほど憎んでいたなら、病院なんかで来るのを待つわけがない。来る人の限られた病院で紅谷が僕の患者になるなんて、きっと天文学的確率じゃないか」
「じゃあ、きっと運命だったんですよ」
「運命ね……何のためにそんなことするのかな、神様は」
 ぼんやりと時間だけが流れていく。この先の人生も、運命で決まっているのだろうか、なんて、適当に考えながら。
「先生は、本当は紅谷くんと会いたくなかったんじゃないんですか」
「……そうだね、うん、そうなんだよ」
 先生は思い出を浮かべながら微笑んだ。
「高校生の頃、僕は紅谷に憧れてたんだ。年下ではあったけど、何もかもが凄くて……紅谷から暴行を受けた時、しばらくは非現実的過ぎて。今思えばあの時、紅谷はドラッグでも使っていたんだろうけど」
 鳶色先生は高校生の時、紅谷くんから暴行を受けた事があった。突然の暴力に、しばらく人間不信に陥るほどだったと。
「紅谷は僕のこと、僕にした事を覚えてなかったけど、それもきっと薬のせいだったのかもしれない」
 紅谷くんは結局、薬物所持と使用の罪で刑が決まった。他にも容疑があったらしいけれど、不起訴になったと紅谷くん自身が話していた。
 だから、鳶色先生に暴行を働いた時もきっと薬物による錯乱状態だったんだろう。一度手を出した悪癖は今でも尾を引き、大きな過ちを繰り返す。
 じゃあ当時紅谷くんが薬物に手を出したきっかけは?
 考えたところで、想像の範疇を超えないし、理由がわかったとして納得できるとも限らない。
 本人不在、情報は少なく仮定だらけの推理など馬鹿げている。
「紅谷に会って殺したいと思ったこともあったけど、謝罪して欲しかったし、理由も知りたかった。でもきっと僕はなにもなくても紅谷の事を許してしまう気がしてた。何も知らないまま憎む相手としていてくれるだけで良かったんだよ、多分。はあ、何言ってるか自分自身わからないな」
 先生は苦笑いをして目をつぶった。
 自分が何を思ってどう行動するのか。漫画や小説のように上手に言葉にするのは難しい事だと思う。
 鳶色先生は紅谷くんを本当に憎く思いながら、そんな紅谷くんに憧れていた気持ちを捨てきれずにいたのではないか。
 色んな感情がないまぜになって、今ここでまとめてもそれは正しくない。
「憎しみでもなんでも、生きる活力に出来たのならいいんじゃないですかね。そんなに悪い方向に働いてなかったですし。だって、見返すためにお医者さんになるなんて普通出来ないですよ」
「元々医者になるのは目指していたんだけどね。実家が病院だし。君はどうして医者を目指したの?」
「あー、俺小児科希望で」
「ブレないね」
 先生は俺の性癖をもう知っているから、聞いた瞬間笑った。
「ベタですけど、俺小さい頃は病気しがちで近所の病院にすごくお世話になったんです。学校で友達と過ごすより、病院で先生や看護婦……今は看護師ですね。それに他の患者さんと話してる方がずうっと楽しくて。俺みたいに病気や怪我で苦しくても前向きに頑張れるよう力になりたくて、それで小児希望なんです」
 ふと視線を感じて横を見ると、先生は口に手を当てて俺をじっと見つめていた。
「ごめん、そんな真剣な話だったのにちゃかしてしまって」
「いえ、夢こじらせてショタコンになったの事実ですし、そんなんじゃ小児科で働けないって諦めてもいたんで」

ーーまもなく3番線に電車が入ります。
 アナウンスが流れると鳶色先生は立ち上がり、ぐぐっと伸びをした。
「僕は実家に帰るけど、君も着いてくるかい?」
「え?」
「今よりもずっと忙しくなるだろうし、小児科には入らせないけど」
「……鳶色先生の下で働けるなら、ぜひ」
「鳶色先生は僕以外にもいっぱいいるけどね」
「あ、そうでしたね」
 ははは、と笑う鳶色先生はようやく元気を取り戻したらしい。いや、紅谷くんに会う前のどこか仄暗さをもった雰囲気よりもずっと良い表情をしていた。
 電車がホームに入り込む。風に吹かれて、先生は気持ち良さそうに微笑んだ。
「にしても、紅谷にはもう二度と会いたくないなあ……自分があんな怖い性癖持ってたなんて知りたくなかった」
 先生がぼやいた。たしかに、骨折したところを再三痛めつけて、怖い人だ。
「でも信じられる? 紅谷、僕がそんなことした後に“今度は純粋にセックスを楽しもう”なんて言うんだよ」
「怖いですよね、彼」
 紅谷くんのことを思い出すと気分が高揚してしまいそうだった。性的に魅力的なのもたしかだったが、明け透けで人懐っこく、どうしても自分のものにしたくなるような、そんな人としての魅力もあった。
 彼の生き様ははちゃめちゃで、そのはちゃめちゃさに人を巻き込んでいく。でも残るのは強く揺さぶられた自分の感情だけ。まるで台風の過ぎ去った後の、夏の日のよう。
「ちゃんと、真っ当に生きてくれたらいいな……」
 先生のつぶやきに俺も小さくうなずいた。
 愛を求める彼にも、いつか愛が注がれますように。