くすんだ白の天井を、わけもなくぼんやりと見つめる。腕から入れられる薬のせいで、頭は相変わらず曖昧だった。
精神鑑定の結果で今後の処遇が決まるらしい。ここは精神科のある病院だった。
「なんだ生きてるのか」
視界に唐突に入った顔は感情のない声でそう言った。一瞬、誰だかわからなくなったのは変装で髪も目も服装のイメージもガラッと変わったからだ。
ウィッグなのか少し長めの髪型とラインを隠す服のせいで、元々中性的な印象だったのがより強くなる。
そんな事言ったら、きっと嫌がられるだろうけど。
「見舞い来てくれたの?」
「いや、屋上から飛んで死んだって聞いたから。線香くらいあげてやろうかと」
「線香より香典ちょうだい」
「お前には一円だってやらないよ」
口角を上げて笑う。こんな綺麗な人だったっけ、と思う。
「……兄貴は」
「さあな。お前がパクられる前に消えたよ。今はどこにいるかも見当がつかない」
肩をすくめて大げさに言う。
そんなわけはない。この人はオレのことが大嫌いだから、例え本当に死んでたとしても、線香すらあげてくれないだろう。
それをわざわざ様子を見に来たのは、兄貴に言われての事だ。
「銀咲さん、ありがとう」
兄貴がどこかに雲隠れしているのは本当のことだろう。銀咲さんだって変装している。
でも、兄貴はオレのことを見ている。それだけ知れれば十分だった。
「……お前があいつの弟じゃなくても、嫌いになったろうな。お前みたいなやつ」
「オレってどんなやつ?」
「明るくて人懐こい、人に好かれたがりで、人に好かれやすい」
「めっちゃ褒めてくる」
「俺とは真逆。ほんと嫌になるよ」
皮肉を含めて微笑んでくる。銀咲さんの長い前髪がはらりと落ちたから、オレは手を伸ばして耳にかけてあげた。
「オレは銀咲さんのこと苦手だけど、嫌いじゃないよ」
「俺をたらしこもうとしてる? はは、この場で絞め殺してやりたい」
その言葉はわりと本音らしい。
「じゃあな。ちゃんとお勤めして真っ当になれよ」
「うん」
「ああ、そうだ。緑島三十里、知ってるだろ? あいつ、事故ってこの病院に入院してるらしい。暇なら遊んでやれば」
「ふうん……?」
ひらひらと手を振り、銀咲さんは行ってしまった。一般人に溶け込んですぐに見えなくなってしまった。
まるでスパイ映画の美形諜報員だ。意味深なセリフを残していく。
緑島三十里がいる?あいつから逃げてどのくらい経ったか。
全てが綻び始めたのは、あいつのせいな気がした。八つ当たりでもしてやろうか。
退屈な入院生活の暇つぶしが出来たかもしれない。
「ほんとにいるじゃん、緑島三十里」
病室のネームプレートに書かれた名前を指でなぞり、そこに入る。
刑務官殺しの主犯が愛露になった事、刑務官から暴行を受けていた事、精神鑑定の結果が良好だった事。
諸々を受けて、病院内での行動は少しだけ自由が利いた。例えば、病室を抜け出してもバレない程度には。
カラカラカラ。軽い引き戸を静かに開けて中に入る。緑島は一人部屋の病室で、見舞客もないのか閑散としていた。
「う……く……うう……」
あまりに静かな部屋で、小さな呻き声もわかった。オレには気付いていないのか、モゾモゾと動いている。どうやら眠っているらしい。
怪我が疼くのだろうか?ベッド脇に寄って覗き込むと、緑島は額から汗を流して眉間にしわを寄せている。
まぶたの奥で目玉がグルグル動いていて、悪夢にうなされているらしい。
「緑島?」
「ひっ、やめっ……な、なんだよ、お前か……」
頬に手を触れると反射で弾かれる。目を見開いた緑島は一瞬困惑して、ホッと息を吐いた。
「誰だと思った?」
「誰でもねーよ……」
緑島はバツが悪そうに言って、顔をゴシゴシと拭った。相当弱っているらしい。顔色も悪いし、目が覚めたのに悪夢の中にいるみたいだった。
「じゃあオレがおまじないを教えてしんぜよう。触るぞ」
「なんだよおまじないって」
胡散臭そうな言葉に緑島は訝しんだが、オレが触れるのを静かに待った。オレはベッドに腰掛け、緑島が怖がらないようにそっと手を伸ばす。
緑島の左耳を手で塞ぐように覆う。正確には、手首のあたりを押し付ける。
「聞こえる?」
「なにが」
「ゴオゴオゴオゴオって、血の巡る音」
オレがそう言うと、緑島が音を聴き取ろうと目を瞑る。緑島の左手がオレの右手に重ねられた。
反対側の耳にも手を当てる。緑島はそちらにも手を重ねた。一途に音を聴こうとする様子は、相当に疲れていた事が伺える。
少しは落ち着いたようだ。
「まあ、人がいるならこっちの方がオレは好きだけど」
耳に当てた手をそのままスライドさせて、オレも横になり緑島の頭を抱くようにした。
緑島の耳には、オレの心臓が動く音が聴こえているだろう。緑島の腕がオレの背中に回される。
「なんでお前みたいなクズがこういう事知ってんの」
ここまでしてあげたのに、照れ隠しなのか悪態を吐く緑島に笑いがこみ上げた。クズさ加減で言えば、緑島だって相当なものだと思うが。
「兄貴が教えてくれた。オレも昔、眠れない時とかあって」
「……」
聞いといて反応はないが、緑島はオレの胸に頭を擦り付けた。そんな様子にオレはムラッとしてしまう。
抱いた頭の後頭部を撫でてやると、小さく呻いて目を瞑る。心地良さそうな緑島の気持ちはよく分かる。
「なあ、おっぱい吸うともっと落ち着くらしいぜ」
言いながらシャツを捲りあげると、緑島はクスッと笑った。
「お前が吸って欲しいだけじゃねえの」
「半分はな。でももう半分は本当かもしれないぜ?」
「適当かよ」
緑島は舌を出してオレの乳首を舐める。それから薄く開いた唇に挟んで、ちゅうちゅうと吸い始めた。
緑島三十里がオレのおっぱいを吸ってるのかと思うと笑えたが、それよりも愛おしさみたいなのがあった。セックスのし過ぎで母性が芽生えるなんてことあるんだろうか。
本当にただちゅうちゅう吸うだけで、気持ち良さはあんまりなかった。緑島も、目をつぶってちゅうちゅう吸うだけだ。お母さんのことでも思い出してる?可愛い赤ちゃんに戻った緑島の頭を撫でると、うっとりと気持ち良さそうな吐息を零した。
もっとエロいことに持ち込むつもりだったのに、そんな気分も削がれてしまう。
「緑島さん、お加減どう……げっ、何してるんですか」
ガラッと引き戸が開いたかと思うと、看護師の男がそこに立っていて青ざめた顔をしていた。
「入るときはノックしろよ」
「そ、それはすみません……じゃなくて、安静にしてなきゃなのに! って、あ、あなた、紅谷さんじゃないですか、なんで病室から抜け出してるんですか」
「え、オレ有名人なの?」
「そりゃ、犯罪者で自殺未遂だったら……っあ」
相当なおっちょこちょいらしい看護師は、パッと口を手で塞ぐ。オレと緑島はニタッと笑い、看護師の肩を抱いた。
「そうだよな、オレがいくら犯罪者だからって、他の患者にバラすのは守秘義務ってもんが許さないよなあ?」
「い、いやでも、二人は知り合いみたいですし……」
「緑島、オレが犯罪者で自殺未遂だって知ってた?」
「いや、確かに全然顔見ないから死んだと思ってたけど、パクられて自殺したなんてな」
「だってさ。オレの秘密バラすなんて酷いよ看護師さん。こういうの上にバレたらどうなんの? あんたおっちょこちょいみたいだし、いっぱい怒られてるんじゃないの?」
ますます青ざめる看護師に、相当ミスを重ねてきた事が伺える。揺すれば落ちそうな看護師に、チョロいと思うよりも心配が募りそうだった。
「な? 黙っとくからさ、あんたもこの事黙っといてよ。この人眠れなくて可哀想だから慰めてやってるだけだし。今回だけでいいから」
「今回だけ、ですか」
「そ。今だけ。な?」
「……わかりました、本当に今回だけですよ」
「うんうん。じゃあ出てって? それともあんたも、オレのおっぱい吸う?」
「す、すいませんっ」
脱兎のごとく逃げ出した看護師の最期の言葉が、どっちの意味なのかわからなかった。どっちにしろ同じか、なんて思いながら緑島の元に戻る。
「自殺未遂って本当か?」
「無理心中に付き合わされてね」
ベッドの端に腰かけた緑島の右足にはギプスがしてあった。オレは緑島の足を跨いで再びシャツを捲り上げる。
当然みたいな顔で乳首を吸いだす緑島が微笑ましい。
「今回だけって本気か?」
「そろそろオレも退院だからな」
「ふーん」
背中に回された手が、なんとなく寂しそうにオレを抱いてる。なんて思った。
「は……やべえ、ほんとハマりそう」
「反対側も吸えよ、片っぽだけでかくなっちゃう」
「それもいいじゃん」
適当な事を言いながら、緑島は反対側の乳首も吸った。緑島の頭を撫でて、頭頂部にキスをすると気持ち良さそうにする。
大人で赤ちゃんプレイにハマる人間というのはこういう感じなのかな。
「緑島、オレ以外のおっぱい吸うときもちゃんと優しく吸ってあげなよ」
「え」
意外そうな顔をする緑島に、オレの方が意外だった。
「だってオレらもう会わないだろう」
「……灯って懲役何年なんだ?」
「十年だって。ま、オレ戻ったら模範囚になるから、多分五、六年で出るけど」
模範囚になります、と決めてそう簡単になれるもんなのかと言う話だが。志は高くなければ。
「じゃあすぐだな」
「いやいや、待ってるつもり? 意外すぎる」
さすがの一途アピールにオレは笑ってしまう。オレたちの間に愛なんてない、激しくヤりあっただけの仲なのに。
すっかり気分は削がれて、オレはシャツを下ろした。
「つーかさ、緑島はなんで捕まらないわけ? 盗撮とか強姦でしょっぴかれろよ」
「証拠無いしな」
「は? そういや、オレ取調べ受けた時見せられた映像、カラオケ屋の監視カメラだったんだけど」
あっ、と思い出す。強制わいせつ罪とか言うので捕まって、見せられたのは画質の荒いカラオケ屋での映像だった。葵とのやりとりが一部画像が乱れて分かりづらかったが。
結局のところ、オレが起訴されたのは薬物使用の現行犯と言うことになったけれど。葵との件がどうなったのかは、オレの与り知らないところだった。
「それな。お前が逃げて少ししたくらいかな。金烏さんが来て、防犯カメラの映像消してったんだよ」
「兄貴が?」
「そう。序でにやばい映像も消しといたら、案の定警察が来てさ。九死に一生ってやつだよな。消したデータも少し復活させられたらしいけど、あんまり使い物にならないって言ってたな」
「緑島、お前情報提供者側に回ったのかよ。クソだな」
とは言え、裏で兄貴が動いていたのは初耳だった。名前を聞いただけで膨れ上がる期待で苦しくて、オレは胸を抑えた。
「なあ、逃げる程嫌で、裏切られたって知って、お前も俺に報復すんの?」
背中に這わされた手も、オレを伺う目も、可哀想なほど怯えて縋っている。そんな緑島の頭を抱いて、よしよしと撫でた。
「あんな薬漬けセックスライフ、続けてたら頭おかしくなる。だから逃げたけどさ、気持ちよくて楽しかったし。気になったから聞いただけで、防犯カメラの映像の事は自業自得だもんな。緑島だけしれっと免れてんのはズルいって思うけど」
我ながら楽天的だと思う。でもやる事やってきた当然の報いだし、それこそ懲役十年なんて、本当にたったそれだけだった。
オレも誰かに恨まれてるんだろうか?葵や、それまでの人間に。
「オレは別に恨んでないよ、緑島のこと」
「……俺さ……いや、」
緑島は何か言いかけてやめた。
何があったかはわからない。現状理解できるのは、怪我以上になにか疲弊して落ち込んでいるということくらい。
「緑島、おちんちん慰めてやろうか」
指で輪を作り上下に動かして、下品に誘って見る。
「お前ほんとクソビッチ」
「それもオレの魅力だろ?」
「ほんとな」
そういうわけで、と緑島の股間に手を伸ばすと、緑島が指を絡めて掴み、触らせてくれなかった。
「どうせクスリで勃たないから、キスして」
「おっぱいは? もういいの?」
「母乳出るようになったら吸わせろ」
「ははは、来世かな」
適当な言葉を適当な言葉で返して、笑ってしまいそうになるくらい甘いキスをする。
キスしてるうちに一緒になってベッドで寝ていると、さっきのおっちょこちょい看護師が「回診来るから戻って! 早く!」と慌てて教えに来た。
それをケラケラ笑いながら病室を後にする。
「じゃあな、緑島。どーしてもオレに会いに来たくなったら、獄中で待ってるぜ」
「ばーか」
中指立てて笑う緑島は、少しは元気が出たみたいだ。
「あんま目立つ事しないでくださいよ……」
看護師は周りをそわそわと見回して落ち着きなく言う。お前がそんなだから注目浴びてるんだぞ、とは教えてやらない。
そうして翌日には刑務所に戻る事になる。元いたところとは別の場所で、担当も生産工場に変えられた。
それもそうだ。刑務官が死んで屋上から落ちてもう一人死にかけて。
愛露がどうなったのかは教えてもらえなかったが、死んだわけではないらしい。という事はぼんやりと伝えられた。
色々な事が変わったが、オレは憑き物が落ちたようにスッキリとしていた。
自分が本当に欲しいものがわかったから、もう無闇矢鱈に誰かを求めたりしない。
それからの日々はあっという間に、何事もなく流れていった。