偶然にも周囲のみんなが背中を向いている優しい世界

 朝の電車が嫌いだった。背が低いせいで、足は浮くし人からは揉みくちゃにされ、人の波に揺り動かされる。でも、念願叶って合格を決めた高校に通うためには仕方のない事だった。
「(とはいえ、うんざりする)」
 今日もまた満員電車で一時間もすし詰めにされなくてはならない。ほら、次の駅でもまた……。
 電車が駅に滑り込むと、開いたドアから人が人を押しのけて出て行き、そして殺気立った人たちが無理やり乗り込んでくる。どうして毎朝、懲りもせず……。
 ガタガタガタ。
「いって……」
 人の波に流され、いつの間にか扉に押し付けられていた。
「大丈夫?」
「あ、すみません」
 壁ドン状態で目の前に立っていた人が、手を差し出して声をかけてくれる。二十代くらいのサラリーマンで、衣服は乱れても表情は明るい、爽やかな人だった。
「すごい混んでるよね」
「あ、はい」
「しばらく開かない方だけど、大丈夫?」
「終点までなんで」
「じゃあ一緒だ」
 短い旅路をよろしく、とでも言うのか、サラリーマンは微笑んだ。仕方ないから愛想笑いを浮かべるが、見ず知らずの他人とこれから二十分も一緒に居続けなければならないと言うのは、現代のコミュ障には厳しいものがあった。
 いわゆるイケメンという部類のサラリーマンだったが自分は女ではないし。せめて相手が女性だったら、なんて考えたところで目の前の現実は、目前に迫る男に壁ドンされている事実だけでしかない。
 むしろ脂ぎったおじさんや、化粧臭いおばさんでなかった事を喜ぶべきだろう。
「ん」
「どうかしましたか?」
「いや、なんでも」
 サラリーマンは眉間にしわを寄せたが、取り繕うように笑った。けれど、すぐにまた表情が歪む。
 時折見せる嫌悪感に満ちた表情を、悟らせまいとするように下手くそに笑った。なんでもないようにはまるで見えない。でも何が起こっているのかはわからない。
 カタタン、カタタン、と電車が線路の枕木に合わせて音を立てる。人で溢れかえっているのに妙に静かで気味の悪い空間だ。
 目の前の男は揺れに合わせて動いていて、体調が悪くなったのか壁に頭を押し付けていた。殆ど潰されそうになりながらもそうならないのは、男が手でかろうじてスペースを保ってくれているからだ。
「はっ……はあ、ごめんね……」
 耳にかかる息がくすぐったい。男は荒い呼吸で囁くように言った。
「本当に大丈夫ですか」
「大丈……うっあ、あ、」
 耳元で自分にしか聞こえないほどの小さな声が上擦っていく。明らかな変調に、吐くのかと訝しんでもそういう素振りではない。
 それではなにか。今も止まない甘く官能的な声は、喘いでいるとでも言うのか。
「え」
 突然股間を撫でられて声を上げてしまう。けれど、周りの誰もが聞こえていないようだった。
 急になにを。そう思って男を見上げるが、そもそも彼の両手は頭の横で壁についている。
 事態を把握しようと頭を働かせる間にも、股間を撫でる手は制服のズボンのチャックを緩やかに下ろしていった。
 痴漢だ、ようやく悟って手で阻むと、痴漢の手は一瞬止まった。止まって僕の手を取り、何処かへ導く。
 熱く滾ったそこに触れると、目の前の男が吐息を漏らす。男の性器に触れさせられていた。
「あっあっあっ……」
 僕の手が触れていると男も理解したのだろう。泣きそうな目が僕を見つめた。煽情的で、官能的な瞳に見つめられ、僕の熱も高まった。
「んっんんっ」
 男は唇を噛み締めて声を堪えようとした。けれど、堪え忍んで善がる男の姿に僕は興奮している。痴漢の手はなくなったのに、僕は男の性器を激しく擦った。手の中でドクドクと息衝くそれがビクッと震える。
「イっちゃ……あっっっ、」
 感極まった声が果てるのを教えてくれたが、それは叶わなかったようだ。身体が大きく震えて、ついには涙を流している。うわ言みたいに「イきたいイきたい」と呟く男は、どうやら痴漢に性器の根元を締め付けられ果てる事を許されなかったらしい。
「あああっ……んっ……っく、」
 男がまた喘ぎ出す。電車の揺れとは別に揺れ動く。定期的な周期でこらえきれないと言うように声をこぼす。壁についていた手も、いつの間にか僕に縋り付いていた。
「ごめ……ん、ごめ……っあ、ああ……」
 嗚呼、この人犯されているんだ。どこの誰ともわからない痴漢に、この満員電車の中、高校生に縋り付きながら。あまつさえ、気持ちよくて善がっている。
 気持ち悪い、変態だ。でも、でも……。
「ま、っなに、」
 カチャカチャと音がすると思っていたら、ベルトが緩められズボンが下されようとしていた。それも痴漢にではなく、目の前の善がり狂う男にだ。
 手を止めようとすると、男の後ろから伸びてきた手が、僕の手を壁に押し付けた。興奮は冷めて恐怖が襲う。
「やめ……ん」
 言葉が奪われる。重ねられた唇から舌が捻じ込まれた。もうこれが痴漢の意思ではないことは明白だった。濡れて揺れる瞳が僕を見つめる。
 おかしい、この空間はいかれている。わかっているのに、男に流されそうだった。絡められる舌に、僕は抗えなかった。
「ん、んふ……」
 こうなっては、声を上げて周囲に助けを求めることも出来ない。ズボンは床に落ち、パンツは今脱がされ、右足を上げさせられる。剥き出しにされた欲棒は熱を帯びて汁をこぼす。
「ごめんね」
 言いながら、男は僕の後ろの穴に触れた。なぜぬるついているのか、数回入り口を擦られてするんと中に入る。
「あ……っ」
 甘い声をこぼすのは僕の番だった。痛みはなく、細い指が腸壁を撫でてゆく。その感覚は形容しがたいが、嫌悪感はなかった。
「んんん……」
 性急に二本目の指が中に入る。切れてしまうと思ったが、穴は想像以上に容易く異物の侵入を許した。
 こんな公共の場で排泄孔を撫でられていい気分になっている。みっともない僕は僕に興奮していた。
 こんなのおかしいのに、止められない。
「ちゃんと声、抑えてね」
 男が耳元でボソリと囁いた。それから穴に熱が触れる。先走りを垂らして待ちわびたような、男のそれが穴を擦る。
「は……まって……まって……っっ」
 さすがに腰の引けた僕の、骨盤をしっかり支えて男が中に押し入る。さっき僕に縋り付いたように、今度は僕が男に縋り付いた。とてもじゃないけれど立っていられなかった。
「うっあ……あ……」
 ガタガタ、律動するたび不自然にドアが揺れた。それでも、こんな恥辱にまみれた僕たちを周りの誰もが見ていなかった。
 内壁を熱が擦り上げる。それだけの行為なのに恥ずかしくて、気持ちよくて、おかしくなりそう。
「もう、イく、イくっ」
 男の肩口に顔を押し付ける。そうでもしなければ空を仰いで叫びたいほど気持ちよかった。頭が白くなっていく。男に性器を擦られ、揺さぶられ、おかしくなる、イく、イくっ。
 ドクッドクッ、胎内で熱が放たれる。僕の精液はいつの間にか付けられていたコンドームに収まったが、僕の中で果てる彼は容赦無く内壁を汚す。
 放心する僕と快感に打ち震える彼が、余韻に浸る間も無くまた腰が動き出す。
「あっあ、あっイったからぁ……っいたっったのにっっ」
「あっあっ」
 男は俯いて僕を犯すだけだった。僕はイったばかりの身体を中から擦られ、ビリビリと性感帯が貫かれる感覚に泣きそうになった。
「ああっく、う、うっ」
 やめたらいいのに男は腰を打ち付ける。やめられるわけがない。彼を痴漢する男に、彼もまた犯されているのだから。
 前も後ろも気持ちよさそうな男が、少しだけ羨ましく思った。

 朝の電車が嫌いだった。押し潰され、揉みくちゃにされるのが。
「おはよう」
「おはようございます」
 あの人が乗り込んでくる。壁際の僕の前に立ち、指が頬を撫で、当然のように唇を重ねる。
 これから終点までの二十分で行われる甘く激しい情事に想いを馳せて、僕は心を震わせた。

終わり