痛いの痛いの

 たしかに僕は、哲治と出会うまで、心のない人形のようだった。
 世界の全てが白と黒の砂で出来た、味も色もない、つまらないものに見えていた。
 そんな僕の前に突如現れた哲治は、まるで台風の夜のように、僕の心を乱暴に吹き飛ばしてしまった。
 僕の心はふわりふわりと高いところまで飛んで行き、ゆっくり下降するのを待つばかり。
 僕の、なにもなかった世界には強烈すぎた。
 だから哲治からの感情を受けて、僕は、砂の心は、ただサラサラと流れていくだけだった。


 サクサクとりんごを剥く音と、ピッピッと鳴る機械音が静かな病室で響いた。
 僕はベッドの上で包帯巻きの点滴に繋がれ、哲治は見舞客用の椅子に座り、上手にりんごを剥いた。
 あんな事の後なのに哲治は僕のそばにいた。

 あの日、あの後、僕をバットで酷く叩きつけた哲治は、それから仲間の3人をも殴り倒した。
 突然牙を向けられた3人は呆気なく地面に這い蹲り、哲治は死屍累々の中で僕を抱き締める。
 携帯電話を片手に、それは、見事な演技だった。
「ごめ、ごめんなさい……俺、俺が、だって、代向が、死んじゃう、」
 嗚咽混じりの言葉に電話の向こうでオペレーターが冷静に声を掛ける。程なくして、落ち着きを取り戻したかのように哲治が状況を説明し、救急車が来る。
『俺の友達の代向が不良にバットで殴られて、今にも死にそうなんです。助けてください。俺、咄嗟に不良のバットを奪って殴り返したから、そいつら頭から血を流して……ごめんなさい、ごめんなさい』

 残忍な加害者はヒーローとなり、僕にりんごを剥いている。
 綺麗に切り取られた欠片をナイフの先に刺し、僕に向ける。無言で促す目は、僕に食べろと囃し立てる。
 口を開くと、端のところが切れて塞がった傷がまた開く。痛みに眉を顰める間に、りんご付きのナイフは僕の口の中に入る。
 ナイフの腹が舌を撫でた。金属の当たる嫌な感じに身震いする。
「はあ、はあ、はあ……」
 荒い息をする僕を哲治は嘲笑う。
「痛いのは嫌?」
「はあ、はあっ、はあっあっああっあ〝」

「ごめんなさい、止めさせようとしたんだけど……俺がナイフなんか、持って来たから」
 哲治が看護士にそう弁明していた。
 僕は哀れな自殺志願者に仕立て上げられ、同情するような視線が投げつけられる。
 舌の表面には大きな切り傷が出来た。今では動かすことも、唾液を飲み込むことさえ苦痛だった。
 喋る事も出来ない。
 哲治は僕を口封じた。

「痛い?」
 哲治はそう言って、僕の唇に唇を重ねる。
 優しくて、痛い、深いキスに、僕は泣いて願うしか出来ない。
 どうしてあの時死にたくないなんて思ったんだろう。こんなことなら、いっそ……。
 哲治の愛が、僕を殺すために優しい口付けを繰り返す。その度僕は泣きながら死を願う。その言葉だって、今はもう紡げない。

 甲斐甲斐しく面倒を見てくれる哲治に、周囲からの評価は高い。
 哲治に触れられるたびに、僕は熱湯をかけられたみたいに身体を震わすのに、誰も気付きはしない。
 手足の包帯が取れ、車椅子での移動が辛うじて出来るようになる。し瓶に排泄していたのを、哲治が車椅子でトイレに連れて行ってくれるようになった。
 そこでは僕は許しを請いながら、下の穴を酷く犯された。慣らす、解すなんてなく、ゴムについた少しのゼリーを頼りに穴を擦られる。
 性交と言うより、暴力だった。僕を貶めるための、手段のひとつ。
 痛みに身体を引き裂かれる。その傍ら、唇を重ね、未だ痛みの続く舌を嬲られる。
 痛みは繰り返せば、脳は鈍感になっていった。痛くて涙が出るのに、その痛みに僕はいつしか、快感のようなものを感じていた。

 僕は退院するまでに酷く時間を要した。それは当然で、哲治は甲斐甲斐しく世話をする傍ら、何度も僕を犯しては治癒に回すだけの体力を根こそぎ奪っていった。
 身体中が痛み、眠ることすらままならない。ナースコールだって、最初の頃に哲治が使えないよう線を切ってしまった。
 僕は痛みを受け続けるしかなかった。やがて痛みが当たり前になるまで。

 傷が大方治り、退院する頃、僕は僕の身体に不安を覚えていた。
 薬のせいか、折れた骨も切れた舌も痛みは少なくなっていた。あの身も凍るような痛みは薄れていく。僕はそれが怖い。
 まるで死んでいくようだった。
 僕のこれまでの世界は白と黒とで出来ていた。そこに突然現れた哲治は、鮮烈なまでの痛みを、愛をくれた。
 僕は痛みによって生きていた。痛いと喘ぎ、痛いと泣き、痛いと叫ぶ。僕はようやくそれで、生きている気がした。
 それが消えていく。
 僕も消えていくような気がした。

 僕はあの、白と黒とでしかない世界が怖かった。また、心のない人形に戻ってしまう気がして。

「生きたい……生きていたい……」
 傍から見たら、それは矛盾に満ちているだろう。
 僕は哲治にナイフを差し出す。僕は哲治のくれる愛に、痛みにのみ生を感じていた。
 僕は飢えていた。
「いいよ、許してあげる」
 哲治は片方の口角だけを上げて歪んだ笑みを浮かべた。
 ナイフがゆっくりとーー……。


終わり