思えば最初から、彼女の目は僕を向いていなかった。
僕が視線で彼女を追いかけるように、彼女もまた、そいつを目で追っていた。
それに気付きもせず、近付き、仲良くなろうと努力してしまった、悪いのは彼女ではなく彼女に恋してしまった僕だ。
彼女ははっきりと口に出しては言わないけれど、穴が開くほど見つめてきたのだから、いい加減理解してしまう。
窓の外に彼女を見つけて、無意識のうちに追いかける。
セミがうるさい。空気が暑い。彼女が恋している、光月(コウヅキ)が憎い。
『なあ、セックスさせて』
『良いよ』
きみのことは大嫌いだけれど、彼女をどうやって抱くのか、参考にさせてよ。
「ニノ一(ニノイチ)」
誤算があるとすれば、だ。光月は執拗に僕を呼んだ。もっと、甘くて可愛い声だったらいいのに。光月は熱っぽい声で、吐息混じりに耳元で、何度も僕を呼んだ。
ガタガタと机が鳴る。狭いそこに僕は押し倒され、足を開かされ、汚い穴を舐められる。足の付け根や玉の裏にキスをされ、彼のフェチズムが窺い知れた。
こんなにも変態だ。
「悪い、抑えられない」
「う……あ……」
呻くように言って、熱が僕を貫く。痛みはなかった。苦しくて、口から何か出て行きそうだ。
「ニノ一」
あるいは縋り付くように、彼は僕を抱き、獣のように腰を振った。内臓が押し潰されて目眩がしそうだった。彼は何度も僕を呼んだ。
『好き』の一言もない。僕の名前だけをひたすらに、思い乗せ名前呼び風セックスとでもいうように、何度も、何度も。
「ニノ一」
ぽたぽたと垂れ落ちるものが、一瞬涙に思えた。僕のか、光月のか。それは上がりすぎた体温のせいで光月が垂れ流した汗にすぎない。
光月は目に入る汗を何度も拭う。泣いてるみたい。必死になって。僕がそんなに好きか。
僕の事が好きか。
この世界に目眩がする。頭が重くずしりと痛い。
僕は光月に敵いはしないと絶望した。僕を愛する光月に、僕は敵いはしない。
今でも名前を呼ばれているようだった。深くまで突き立てられた穴がジリジリと疼く。手の触れたところ、指の撫でたところ、吐息が、汗が、匂いが、頭から離れてくれない。
「やめてくれ……」
目を瞑ると浮かぶ光月に文句を垂れる。僕の気持ちなんか御構い無しに、僕を愛した。
「やめてくれ」
手で目を覆っても、顔を洗っても、何度寝返りを打ち、枕に八つ当たりをして、何事かを呻いたって、僕の頭の中に居座る光月は消えてくれなかった。
僕はその日から光月を避けるようになった。幸いな事に夏休みが始まり、家から一歩も出なければ彼に会う事もない。
学校が始まってからも、高三の僕たちに残された時間は残りわずかだった。何度も視線を感じたが、確かめる事もしなかった。
やがて、その刺さるような視線もなくなる。僕はそれが少し寂しくなる。
何事もなかったかのように日々は過ぎ去る。
メールで、高校の同窓会の連絡が来た。ずいぶんお手軽な世の中になったものだ。事務連絡のような文面に日時と会費、参加の出欠を答える締切日。
メールをくれた相手が誰だったのか、顔も思い出せない。
僕がまともに思い出せるのは一人の事だけだった。思い出すどころか、忘れられなかった。
耳の奥に残る声が今でも繰り返し響いた。時が経てば経つほど、それは強くなっていく。これじゃあ心を病んだ妄想だ。それでも君は、僕を愛するのをやめない。
いないはずの彼の指が僕をなぞり、あるはずのない熱が僕を抱きしめる。おかしくなる。それを振りほどいてハッと目が覚めて、ベッドの上の僕はさめざめと泣いた。
僕は同窓会に欠の返事を送り、携帯の電源を落とす。
彼は今、どんな事を思い、過ごしているのだろう。
僕は彼の中で、どんな記憶だっただろうか。たった一度だけの美しい記憶か。それとも二度と思い出したくもない、嫌な記憶か。
僕は忘れられるものなら忘れたかった。でも、一度も忘れられない。
「なあ、セックスさせて」
どこが会場かなんて知らなかった。地元から出ていない僕が、地元で同窓会をする彼らに出会ってしまうのは十分あり得ることだったのだろう。
それでも、強い力が僕の腕を掴み、何度も頭の中で繰り返された言葉がまた、僕の鼓膜を震わせた。それを運命だと思っても、仕方のないことじゃないか。
「良いよ」
これが僕らの符合なら、ロマンスのかけらもない。笑ってしまうくらい直球な言葉が、僕は嬉しい。
頭の中で僕を抱く姿からは、逞しく大人になった彼が僕を包み込む。
表情や声だけはそのまま、僕を呼んだ。泣いてしまいそうだ。僕はずっとこの時を望んでいたのだ。
「なあ、俺たち……」
光月がこれからどんな言葉を言おうと、僕はきっと、良いよと答えるのだろう。
僕を見つめる光月が、幸せそうな表情をした。僕は、そんな君が好きだから。
終わり