傘
思えば、君
重なる小指
彼に傘は要らない。
名前は要らない。
愛は要らない。
雨の降りしきる中、彼は地面に座り込み、周りのゴミと一緒に埋もれていた。
その瞳は真っ黒で、宇宙の光を吸い込むブラックホールのようだ。
前を通りかかった僕が足を止める。彼は死んだように動かないのに、それでも小さく呼吸をしている。彼はまだ、生きていた。
彼に傘を差し出す。バツバツと雨が傘を穿つ。それ以外に音はない。ただ静かに、僕たちは見つめ合った。
高性能アンドロイド。人類はついに、完璧な存在を作り出した。AIによる人工知能と、朽ちることのない肉体を持つ。
ごみ捨て場の彼もまた、アンドロイドだった。
ピューーーと、高い笛の音がお湯の沸騰を告げる。
ごみ捨て場からほど近い、ゴミのような住処に連れてきて、僕はコーヒーを淹れた。
今時骨董品にも出回らないヤカンから湯気が噴き出すのを、彼は小さく笑った。
コポコポとインスタントのコーヒーをカップに注ぎ、彼に手渡す。
アンドロイドには食事は要らなかった。人らしい姿の彼らは、人らしい生理現象は何一つ必要としなかった。
けれども、実に人らしく、熱さに驚きフーフーと息を吹きかけ、温度を下げようとする。
僕にはそれがとても滑稽に見えた。
アンドロイドは美しい姿をしていた。雨土に晒されても、肌は綺麗なままだった。濡れた髪も次第に乾き、顔を動かすたびにサラサラと揺れる。
人が人の欲望のために作った、ひたすらに美しい、彼はセクサロイドだった。
首にはそれを示す首輪が付いている。政府のお墨付きを表す真っ赤でシンプルな首輪。白い肌に黒い髪と瞳、人形のような彼にはとても似合っていた。
「君は」
どこからか垂れた雫が彼の頬を伝う。それを指で拭うと、彼は僕の指を咥えた。
「とても綺麗だね」
赤い舌が唇から覗く。内臓を晒したような赤に、僕はゾクッとした。その赤は僕の指を丁寧に舐めあげていく。
「みんなそう言う」
唇を歪めて笑う。それもまた、美しい。
どうしてセクサロイドに知能を持たせたのだろうか。
人の欲望の捌け口になるだけの彼らに、どうして心を持たせたのか。
議論は尽きない。セクサロイドと生涯を共にする人間も増えている。セクサロイド同士のカップルもいる。心を壊されたアンドロイドの、権利を主張する団体も出来た。
そんな世界で彼は呟いた。
雨の降りしきる、薄灰色の世界を眺めて呟いた。
「人間なんて、早く滅んじゃえばいいんだ」
彼はコツンと窓に額を当てて目を瞑る。冷やされたガラスが心地よいのか、頬を付け、舌を這わせた。
「貴方は俺を抱かないんですね。ED?」
好奇心を覗かせた彼の瞳がキラキラと輝く。人らしいものを持ちながら、強制的に性欲を高められている。彼の、彼らセクサロイドの人工知能にはリミッターが付いていて、時間・温度・台詞、その他色々な刺激に反応して性的に興奮をしていた。
人工の心は嫌がっているのに、人工の心によって興奮させられている。
頭がおかしくなりそうだ。
「ED治療も出来ますよ、してあげましょうか」
「いや、勃起はちゃんとするんだ」
「じゃあシャブリます?それとも、」
綺麗な姿にはそぐわない、とんだあばずれのような言葉に僕は苦笑した。すると彼はスッと口を塞ぎ、そして改めて開く。
「キスから始めましょうか」
そう言って浅く開いた唇を舌なめずりし、僕に口付けた。
啄むようなキスから次第に深くなっていく。攻めると言うより、求めるようだった。
彼は僕を押して倒し、どうにかして僕から愛を貪り喰らおうとしていた。
彼は愛に飢えていた。
身体が、心が、愛に飢えている。愛されたがっている。けれど彼が感じられる愛は、セックスでしかない。
そんな彼に、僕は憐れみしか向けられなかった。
毎晩毎晩、誰かと身体を重ねる。アンドロイドだからと乱暴にされたこともあるだろう。アンドロイドだからと愛のないセックスを繰り返した事だろう。アンドロイドだからと、おままごとの愛情ごっこに、なんど騙され喜んだのだろう。
可哀想に。
心なんて与えられて。
心の半分は喜び、心の半分は嫌がって。
それでも君は愛を求めた。
繰り返し、繰り返し。
僕に出会うまで。
「今までのどんな愛撫より、貴方の手が一番悲しい」
サラサラと流れる髪を指ですくうと、彼が呟いた。
彼が静かに流す涙が、ひときわ美しく輝いて見えた。
「僕は絵描きなんだ。君の絵を、描いていいかい」
「いいよ。世界で一番、きれいに描いて。それで、その絵を俺にちょうだい」
約束だよ。重なる小指に、僕たちは誓った。
それから僕は絵を描いた。とびきり時間をかけて、少しずつ彼を描いていった。
その間、彼は僕のそばで時間を過ごした。
セクサロイドはセックス無しには生きられない。時にはキスを、時には愛撫をしたけれど、彼はいつも物足りなさそうに、物欲しそうにしていた。
そのさまが僕には一段といやらしく、美しく見えた。
やっと絵が描き上がった頃には半年の月日が経っていた。
「これが……俺……」
その絵を見て彼が頬を赤らめ微笑んだ。それが愛おしくて抱きしめると、彼は僕の腕を振りほどく。
「違う、俺はこんなんじゃない」
彼の心の半分は喜び、半分は嫌がった。
僕が描いた彼は、あまりにも綺麗すぎた。
たくさんの人に抱かれ、穢れを知った彼には、僕の絵は受け入れ難かった。
「俺はこんなに綺麗じゃない……今だって……今だって嬉しいのに、頭の中では貴方に抱かれる事ばかり願っている」
それが恥ずかしいとか、嫌だとか、彼はずっと心の隅に押し込めていた。セクサロイドだからと、仕方ないとか、気付かないふりをしていた。
心を持ったセクサロイドだなんて、悪趣味な話だ。
それから彼は僕の家を飛び出した。あの、淡く柔らかい光に包まれたような生活は終わりを告げた。
僕の手元に残ったのは、その名残だけだった。
「思えば、君とは、何度ここで出会っただろう」
雨の降りしきる中、彼は地面に座り込み、周りのゴミと一緒に埋もれていた。
その瞳は真っ黒で、宇宙の光を吸い込むブラックホールのようだ。
前を通りかかった僕が足を止める。彼は死んだように動かないのに、それでも小さく呼吸をしている。彼はまた、生きていた。
僕は彼に傘を差し出す。
雨がバツバツと傘を穿つ音がする。
僕はそれにかき消されないよう、声を上げた。
「僕は絵描きなんだ。君の絵を描いていいかい」
彼は首を横に振った。
「何度出会っても、君はやっぱりきれいなんだ。世界で一番きれいな君を、僕は何度でも描くよ」
彼の頬に伝うのは雨の雫か、涙か。傘の下で雨が降る。
僕が絵を描き上げるたび、彼は家を飛び出した。
そしてここでまた出会う。
僕の描いた愛を、君が受け取るまで。
何度でも僕は傘を差し出して。
終わり