宿題/雨宿り

 嫌な空模様と思いつつも、傘を持たずに出たら、だ。あっという間に暗雲がたちこめ、打ち付けるような雨が降り始める。
 俺は持っていた荷物が濡れないように服の下に入れ、近場の建物の下に駆け込む。
 さっきまで暑いくらいだったのに、今じゃ空気はひんやりと肌寒い。
「くちゃん」
 変なくしゃみが出た。鼻を擦り誤魔化すと、クスクスと笑い声が聞こえた。
 ハッとそちらに目をやれば、二階の出窓の部屋で窓辺の椅子に座る、線の細い男がこちらを見ていた。
「待ってて」
 男はそう言うと、部屋の中に消えてしまう。
 慌てていた俺は気付かなかったけれど、ここは町外れの洋館だった。広い屋敷で数年前まで誰も住んでいなかった。それが、気がつくといつからか若い男が居着いていた。その男の詳細を知る者はいなくて、噂ばかりが一人歩きしていた。
 幽霊、吸血鬼、殺人鬼でここに逃げてきた、とか。馬鹿馬鹿しい話なのに、身体が冷えてぶるっと震える。
「どうぞ、寒いだろう」
 かちゃん、と大きい扉の片方が開かれ、男が顔を出した。
 思っていた印象よりもがっしりとした身体で、170ある俺よりも大きい背丈は、185くらいだろうか。
 シャツにスラックス、皮の靴を履いていた。
「いや、でも……」
「しばらくは、雨も止まないから。せめて身体だけ拭いたら」
 渋る俺の肩を抱いて、中に招かれる。天気のせいか薄暗いそこに足を踏み入れるのは、少しだけ、嫌な気がした。

 結局頭からずぶ濡れになってしまった俺は、風呂に押し込められた。知らない人の家で裸になるのは抵抗があったが、内側から鍵をかけられると言うし、いざとなれば通報できるよう携帯を側に置いておいた。
 浴室は広いタイル張りで、四つ足のバスタブが置かれている。まるで人形のお家のようだった。
 俺はシャワーを浴びて、暖かさにホッと息を吐く。どうして知らない人の家でシャワーなんて浴びているのか、そんなこともどうでもよくなるくらい心地良かった。
 俺はそのまま、湯の張られたバスタブに浸かった。熱くもぬるくもない、俺のために用意されたような、そんな……。
 心地良さに、俺の意識はストンと落ちた。

 ゆらゆらと揺れるような感覚がした。甘い匂いと、人肌のぬくもり。
 ああ、まだ目覚めたくない。
 ああ、でも目覚めないと。

「っ……」
「やあ、目覚めたか」
 まぶたを開けると、布製の少し低い天井が目に入る。横を向くと薄いレースの向こうで、男が優雅に紅茶を飲みながら椅子に座っていた。
「湯船で眠っていたようだから、失礼ながらこちらに移させてもらったよ」
「あ、いや、はは……すみません……」
 柔らかい肌触りに、バスローブを身に付けられていたことに気付く。

「さて、雨は上がったけれど」
 男は紅茶をテーブルに置き、俺の寝かされている天蓋付きベッドの端へ腰掛ける。男の指が俺の頬を撫でた。
「疲れているようだから、このまま今夜は過ごすかい?」
 そのまま指が頬を撫で、顎に触れて俺の顔をくいっと上げさせる。俺はあっけにとられて、何を言われてるのか、されているのか、一瞬わからなくなった。
 いや、理解したのに、脳は半分受け入れかけていた。
 ここで、一晩を……。
「……いや、いやいや、帰ります。すみません、お邪魔しました」
 ハッとして男の手を払い、俺はベッドから降りた。近くの椅子に俺の服がかけられていて、それらはもう全部乾いていた。
「そう」
 男は立ち上がると、俺の肩を抱いて耳元に囁いた。
「気をつけてお帰り」
 ぞわっと鳥肌が立つ。
 なにもかもが薄気味悪いのに、どこかが燃えるように熱くなる。
 男が部屋を出てから、俺は急いで服を着替えた。そのまま部屋を、家を出て行く。

 外に出ると空は太陽が燦々と輝き、夏の暑さを取り戻していた。さっきまでの大雨もどこへやら、入道雲がもくもくと浮かび、セミがやかましく鳴いている。
 あれはなんだったのか。逃げるように早足で、家の前まで来て気付いた。荷物の大部分をあの家に忘れてしまっていたことを。
 携帯も書籍も、なにもかも忘れていた。幸いなことに財布と家の鍵は持っていたが。
 今から戻るか……?空を見ると、また嫌な雲がたちこめていた。
 俺はその日、諦めて家におとなしく帰ることにした。

 それから晴れの日が続いた。その間、何度もあの男の家に行こうとしたのに……不思議なことに、あの男の家がわからなくなっていた。
 たしかこの辺りに、いやこの辺か、思い当たるところを方々探したが、あの家にはたどり着けなかった。
 しかも奇妙なことに、町の人はあの洋館の存在を知っているのに、場所は誰にも思い出せなかった。近くを歩いている住人や交番で道を聞いても、「ああ、そんな家もあったね。いや、でも、この辺じゃないからわからないかな」と、答えるばかりだった。
 じゃあ、あれは夢だったのでは?
 そう考えたところで、たしかに携帯と書籍は行方知れずのままだった。考えられるのはあの洋館だけだった。

 薄気味悪さを纏ったまま毎日が過ぎていったある日。覚えのある、雨のにおいがした。まだ降っていないが黒い雲がもくもくと現れ始める。生ぬるい空気が冷やっとした。
 ああ、この感じ、知っている。
 ザアーー。
 間も無く雨が降り始めたとき、俺はあの家の前にいた。
 男は扉の前に立ち、笑っている。
「やあ」
 男は僕の肩を抱いて言った。
「どうぞ、寒いだろう」
 薄気味悪いのに、身体は動かなくなる。嫌な気がするのに、俺は、ただ招かれるまま中に入った。

 前ほどは濡れなかった俺は、タオルだけ借りて身体を拭いた。
「髪も濡れている」
 不意に男の手が伸びて、俺の頭をタオルで拭った。優しく包まれるような感覚に、俺は身体から力が抜けていくようだった。
 俺は甘い匂いに気付いた。そういえばあの時も、なにか甘い匂いがしていた。この匂いが気分をおかしくさせているのかもしれない。
 そう思って呼吸を浅くしていると、男の腕が俺を抱き寄せ、男の胸に顔を埋めさせられる。
「どうかした?」
 ずくん、と身体の芯が熱を持ったようだった。
 だめだ、こいつに近付いたら、俺はおかしくなる。
 そう思った頃には頭に霞みがかって、膝から崩れ落ちるのを感じた。

 ゆらゆらと揺れる。甘い匂い、心地良い温もり。
 ふわふわと浮き上がる気分が、晴れ上がる空のように急に意識がはっきりとした。けれども身体はうまく動かない。
 俺はあの天蓋付きベッドの四柱に、それぞれ四肢を結ばれていた。
「な、なんだこれ……」
「ああ、もう、空は晴れてしまったのか」
 窓辺に立っていた男は、シャッとカーテンを閉めた。それからテーブルに置かれたものを手にとって、ベッドに歩み寄る。
「君の荷物、見てしまったよ。夏休みの宿題に苦戦しているようだね」
 男はベッドの端にかけると、俺の頭を撫でた。
 そうだ、あの日持っていたのは学校から出された夏休みの宿題だった。自由研究ーーそれが苦手で、俺はどうしようか考えていた。
 とりあえず図書館に寄って手にしたのは、この町の歴史書。その帰りに、雨に降られたのだった。
「実はオレも宿題があってね」
 男が俺の目を覗き込むように言う。
 宿題なんて不思議に思えた。男がとても学生には見えなかったからだ。けれども、じゃあ男が社会人かと言うと、そうとも見えなかった。
 とても曖昧で、年齢はおろか、性別だってよくわからない。なにもかもが、不確かなものに思えた。
「永遠に、終わるかわからないけれど」
 男はそう言いながら微笑んだ。


「ん、ん、ん、いやだ、やめろ、」
 男はクリーム状の何かを指に取り、それを俺の唇、首筋に撫でつけた。甘い匂いのそれは、体温で溶けて口に、皮膚に染み込むようだった。
 クリームの塗りつけられたところは最初ピリピリとして、次第に熱く、感覚が曖昧になっていく。
「いやだ、いやだ……」
 急激に恐怖が襲ってくる。それでも男は気にせず、俺の身体にクリームを塗り続けた。鎖骨、脇、乳首、身体はおかしくなっていく。
「うっあ、あっ、」
 乳首を男がキュッと摘む。痛みはなかった。ぼんやりとした刺激だった。それなのに、身体の芯がじわっと高ぶる。
「蝶の標本を作ったことがあるかい?乾燥させた蝶には軟化剤を注射で打って、柔らかくして、羽根を開かせるんだ……君の身体も、開かせてあげるから」
「んあっあ」
 男の唇が唇に触れた。腫れ上がった傷口のように、身体は過敏に反応する。
「怖がらなくても大丈夫……痛くはないだろう」
「んん……んん……」
 男の手は脇腹を撫でて、ズボンと下着の中に入り込んだ。ヌルヌルとした手が性器を触れると、そこは燃えるように熱くなった。
「ああっ熱いっ熱いいっ」
「ああ、失礼」
 男の手が離れると、身体が弛緩して、性器の先端からはビュルビュルと先走りとも尿ともとれない何かがあふれ出た。
「君、童貞?童貞には刺激が強すぎたね」
 男がくすくすと笑った。けれども、そんなことは気にならないくらいに身体は疼いていた。身体中が触られたくて、気持ちよくて、おかしくなっていた。
「ほら、君は自ら身体を開き始めた」
 男に指摘されてハッする。俺はいつからか、立てた足を大きく開いていた。男に触られようと、腰を、身体を突き出して強請っていた。
「ここも、処女だろう。どんな反応を見せてくれる?」
「っんんぁああああっ」
 ずるんと指が差し込まれる。普段排泄するだけのそこに、いとも容易く突き立てられた指。俺の身体はそれをきゅうきゅうと締め付けた。
「ああ、いやらしい」
「ああああっうああああっ」
 ずにゅずにゅと指を抜き差しされる。それだけで脳の神経を擦られたみたいに、全身がビリビリと反応して、俺はまた性器からビュルビュルと何かを吹き出した。


 ああ、また雨だ。
 いや、雨はもう止んだか?
 もうわからない。頭がとろけているようだった。もうずつと、涙もよだれも精液も垂れ流している。脳みそも一緒に溶け出ているんじゃないか。
 俺はもうなにも考えられなかった。
 気持ちよかった。ただ気持ちよかった。

「うん、今年もいい標本が出来たよ」

終わり