カランカラン。ドアに付いた鈴が軽い音を鳴らす。かちゃかちゃ、がちゃがちゃ、ポタポタ。硬い靴底が木の床を叩き、金属の装飾を鳴らして、水滴を垂らして歩く。
「いつもの」
がしゃ、ぎし、ぎし。カウンター席の真ん中に陣取り、慣れた様子で言う。
僕は苦虫を潰したような顔を潰して、愛想笑いを浮かべた。
「こんにちは、いつもの、ですね」
僕が答えると、彼は口角を上げた。常連気取りの彼はここふた月ばかり足繁く通ってくれているお客さんだ。
毎回頼むのはブレンドのコーヒー。苦いのが苦手なくせに、ブラックで飲みたがるから、少しだけミルクを入れてあげて。
「ところで……あー、今日は随分と、盛大にお仕事されてきたようですね」
オブラートを二重にも三重にも包んで言った。すると彼は、自慢げに微笑んだ。
「ああ、少し手間取ったけどな。相手は三人も追っ手を殺ってる輩だ。まあ、俺の手にかかれば……こうよ」
スッと首を親指で横にひっ掻く仕草をする。ああ、凄いですねえ、と適当に褒める僕の顔は表情筋がヒクヒクと引き攣ってたまらない。
なにせ、この常連の彼。セド・アヤセ(22)は、「凄腕」の「殺し屋」で仕事終わりにうちの店にやってきては、床と椅子を血まみれにしていく。彼の話だって、コーヒーのスパイスには生臭すぎている。
彼が帰った後に血の跡を消すために何時間床に這いつくばっている事か……。遠回しに伝えてみたところで伝わらないことは、このふた月で重々承知していた。
けれども、自信に満ちた顔で戦績を話す姿を見たら、なんとなく咎める気にはなれなかった。
まあ、せめてカップを持つ手の血は拭ってほしいとは思う。真っ白のカップがあっという間に、惨殺事件の証拠品と化している。
彼が初めて来たのは、雨の日だった。
来た、というよりは、辿り着いたと言うのが正しい。
店の前に座り込む、彼は彼自身の血で塗れていた。雨に流され血の気が失せていく彼の顔は真っ白で、元々の顔立ちが整っていた事もあってか、陶器で出来た人形のようだった。
一瞬見とれていた僕は、正気に戻り、慌てて彼を店の中に入れた。
怪我は酷いものだった。腹部に銃創、右腕の肘から肩にかけて刃物による切り傷。左足は足の甲と指が折れていた。
応急手当をしたものの、三日三晩高熱で寝込み、幻覚すら見ていた。
そんな死の淵を彷徨った彼だったが、目覚めると一週間で傷はほぼ完治。恐るべき治癒力だった。
それからというもの、彼は仕事が終わるたびに顔を出してくれている。危険がつきものの仕事だから、無事を知らせてくれるのは嬉しいし安心する。
けれど、返り血を浴びすぎだし、そんな血まみれで現場からここに来るなんて怪しまれてしまうし、とにかく、今でも心配で目が離せないのが現状だった。
「アカネさんは」
懐かしい思い出に浸っていると、アヤセくんは真摯な瞳で僕を見つめた。アカネというのは僕の名前だ。
アヤセくんはいつになく真剣な表情だった。
「殺したい奴とかいないのか?」
かちゃり、コーヒーのカップを置いて、僕の答えを待っている。
「あー、うん、いないかなあ」
「一人も?迷惑な客とか、地上げ屋とかさ」
「ん、ん、ん」
そうだね〜〜、毎回店を血まみれにしていくお客さんには時々殺意が沸いてくる事もあるけどね〜〜、などとは言えるわけもなく、僕は咳払いをして誤魔化した。
「……アカネさんにはほんと、世話になってるから、なにか礼がしたいんだ」
アヤセくんはカップを見つめ、指で淵をなぞりながら言った。しおらしい姿にキュンとこないこともないけれど、淵に乾きかけた血が伸びていくのを今すぐ綺麗に洗い去りたい衝動に駆られてそれどころじゃない。塗り込むんじゃないよ、どこの誰ともわからない血なんて。
「……僕はこの店で、お客さんが来るのを待つだけだから。君がこうして顔を見せてくれるだけで、僕は嬉しいんだよ」
僕が言うと、アヤセくんはハッと顔を上げて、頬を赤く染めた。
僕はアヤセくんの頬に手を当て、指で拭う。真っ赤な血が付いていたからだ。
「また来て、アヤセくん。出来れば、仕事以外の時にでも」
僕はそう言って、アヤセくんのゴワついた頭を撫でた。頭から返り血を浴びるって、どれだけ接近戦をしたんだよ、と。
このふた月見てて思うけれど、アヤセくんてほんと、下手くそだよなあ……。
「そういえば、傷の調子は平気?」
「え?ああ……」
死にかけたんだよ?と、クギを刺すためにも言うと、アヤセくんは服の裾を引き上げて、お腹を見せてくれる。
鍛え上げた腹筋は綺麗に割れていて、そこにほんの少しの歪んだ傷痕が残っていた。
「アカネさんは心配症だな」
アヤセくんはふっ、と笑って僕の手を取った。その手を、お腹に触れさせる。
「どう?平気そう?」
僕の指がアヤセくんの腹筋をなぞる。硬くて、厚くて、なんだかいやらしい。ほんの二ヶ月前には穴が空いていたのに、今ではその痕も小さくなっている。
「うん、平気そう」
言いながら、僕はアヤセくんの腰を撫でた。
元々の骨格が細いのだろう。どんなに鍛えていても、腰つきが細くて、両腕で抱きしめたら折れてしまいそうだった。
こんなに細い身体で、よく「殺し屋」なんてやって生き残ってこれたものだ。まあ、死にかけた事もあったんだから、いつも余裕があるわけではないだろうけど。
僕はアヤセくんの腹筋から、少し上に手を這わせる。シャツの下、見えない乳首を親指で潰した。
「んっ、んっ?!アカネ、さん、」
アヤセくんの顔が真っ赤に染まる。
「ああ、ごめん、手が滑って」
僕が笑って言うと、アヤセくんはふう、とため息を吐いた。
鍛え上げられた身体というのは、どうしてこうも魅惑的なんだろう。僕のいたずら心が少し暴走してしまったようだ。
「もうこんな時間だね。今日は雨が降るそうだから、早めに帰った方がいいかも」
「あ、ああ……」
平然と僕が言うものだから、アヤセくんは少し戸惑ってから、頷いた。
それじゃあ、と顔を赤くしたまま彼は店から出て行く。少しいたずらが過ぎただろうか。
カップに残ったコーヒーを口にする。ぬるくてあまり美味しくはなかった。
ああ、間接キスだ、なんて思いながら。
ガシャン。ガラスの割れる音が響いた。
雨は降り止んでしっとりと濡れた午前2時のこと、一階の店から音がした。僕は居住スペースになっている二階で目をさます。
随分なお客さんが来たようだ。確かに店のドアは閉まっているけれど、簡単な作りの鍵なのだからピッキングでもして静かに入って欲しいものだった。
ガラス業者に連絡をしないと。
僕は枕元の銃を手に、部屋をそっと出た。侵入者の目的はなんだろう。まさか、こんな寂れた喫茶店に金品目的で押し入るとは考えられない。
ギシギシと階段を登ってくるお客さんを、階段脇に置かれた棚の影から見守る。相手の武器はどうやらサバイバルナイフで、拳銃は持っていないらしい。僕は拳銃を腰のベルトに差し込み、侵入者が階段を登りきった瞬間ーー床に押さえつけて捕らえる。
「警戒ゼロなんて、君は囮かい?」
床にうつ伏せに叩きつけられた侵入者は目を白黒させた。なにごとか言おうとするのを、頭に拳銃を突きつけて制する。
「僕の質問にだけ答えて。言っていることは、理解できるね?」
かちゃり、撃鉄を起こして侵入者に質問する。荒い息の彼は、うんうんと頷いた。
「嘘をついてもわかるからね」
耳元で囁くように語りかける。僕は彼の腰に馬乗りになり、腕を拘束していた。手首を握っていて、筋肉の収縮や脈拍の変化、それから発汗、目の動き、呼吸の変化から相手の感情を読み取る術を持っていた。
「侵入の目的は僕?」
「ち、違う……」
震える声が答えた。
「目的を教えて」
「セド……セド・アヤセのことを探りに」
やはり、というのが心情だった。
血を滴らせて足繁く通っていたのだ。アヤセくんの敵仇から目をつけられていてもおかしくはない。
それに、僕が目的だとしたら、この侵入者は無防備すぎる。
「君を雇ったのは誰?」
「……」
侵入者は、ごくりと唾を飲んだ。
僕にはその仕草だけで十分だった。
「そう……ブランデッドファミリーだね」
ヒッ、と侵入者が怯えて声を上げた。けれども、僕は他のことに意識を持っていた。
窓に影、屋根の上を人が歩く音、一階から這い寄る侵入者。
僕の下にいる彼は、やはり囮に過ぎなかった。
バンッガシャンバンッガシャン。銃声、それから、長くて短い夜が始まる。
囮の侵入者を銃で叩きつけて気絶させた。窓からの侵入者に銃を浴びせ、敵が落ちていくのを確認。窓から身を乗り出して、見える敵を二人銃で撃つ。
と同時に、階段下の侵入者に銃を向けられている事を察知。早々に立ち退くと、追うように銃弾が壁に穴をあける。
ああ、修理費がかさむなあ。
一階から上がってきた一人に飛びかかるように押し倒し、後ろの二人もなぎ倒す。前転でテーブルの影に移動しながらさらに二人を仕留める。
弾が切れたので、倒れている敵が持っている銃を取り、二階から来る敵を迎え撃つ。二階より一階の方が後々後処理が楽だった。
最後の敵は屋根に残っていて、僕は二階の窓から屋根に上がり、無線で連絡を取るそいつに銃を突きつけた。
「君で最後だ」
「それは……どうかな」
ニヤりと笑うそいつの胸元が発光、自爆による心中作戦。辛くも爆発から逃れた僕は、爆風によって屋根から転げ落ちそうになる。なんとか雨樋にしがみついた。
そこを遠くからスナイパーが狙い撃ち。僕は手を離し、落ちながら、スナイパーに撃ち返した。
ブランデッドファミリーはこの街を仕切るマフィアだった。ナイフ一本で侵入した男は結局のところただの囮に過ぎず、後からやって来たマフィアの手練れ達こそが、僕を殺しに来た本命だった。
僕はといえば、元FBIのスパイだった。心の休まらない日々に嫌気をさして仕事を辞め、こんな片田舎で喫茶店をやっている。
アヤセくんが来たときは、最初は僕を殺しに来たのかと思った。場合によっては消さなければいけない。
僕の疑惑とは裏腹に、彼はそんな素振りも見せないし、僕の正体にだって気付いていないだろう。
僕は穴の空いた屋根を見上げながら、どうしたら取り繕えるかなあ、と考えた。
今日も来るだろう常連さんに、「いつもの」を用意しなくてはいけないから。
終わり