贖罪/ファーストキス

 10月1日、天使が誕生した。
 ベビーベッドで穢れも知らず、すやすやと眠る天使は歳が15離れた弟だった。
 愛しくて、僕は彼にキスをした。
 まだこの世に名前すらない彼を、一番最初に穢したのは僕だった。

「兄貴、俺の下着知らない?」
「乾いてない?」
「ない」
「じゃあ新しいのおろそうか」
「いいよ、兄貴の借りる」
 弟、司(ツカサ)はそう言うとタンスの僕の下着が入っている引き出しをごそごそとあさり出す。
 僕の穿いた下着に(洗ってあるとは言え)司の大切なところを包み込むと思うと、下腹部がきゅんとする。
 僕と司は2人暮らししていた。
 司が10歳、僕が25歳の頃折り合いのつかなくなった両親は離婚した。それぞれ別々に父母に引き取られたが、僕が就職し、一人暮らしをすると司もそこに転がり込んできた。
 名目上は進学した私立中学に近いから、と言うが、僕の家から近いところに進学を決めたのではないかと思っている。
 髪を染めたり服を着崩したりしてはいるけれど、根は真面目な可愛い弟だった。
「今日は帰り遅いの?」
「なるべく早く帰るよ。何が食べたい?」
「ケンタ」
「わかった」
 僕は司の頭を撫でた。
 今日は司の誕生日だった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい、行ってきます」
「いってらっしゃい」
 2人で行ってきますといってらっしゃいをお互いに言いながら、一緒に家を出る。
  僕たちはとても仲の良い兄弟だった。

「今日弟くんの誕生日だっけ?」
 僕にそう聞いたのは、同僚の新川(シンガワ)だった。新川とは同期で、弟の話もよくしている。
「そう。もう18だし、祝ってあげたいから今日は絶対定時で帰る」
「先週から前倒しで仕事してたもんな。ほんと、いいお兄ちゃんだこと」
 2人で食べるには少し大きいケーキも予約したし、僕の頭は誕生日のお祝いのことでいっぱいだった。
 誕生日プレゼントはいらないと言われたけれど、少し高い時計を買ってある。司は手が大きいから、きっと付けたら似合うと、そう思いながら選んだ時計だった。
「にしても18かあ~月日はあっと言う間に流れちまうな」
「そうだね」
 2人で暮らしてから5年という月日はすぐに過ぎてしまった。
「お前もそろそろ、身を固めないとだな」
「え?」
「え、じゃないよ、え、じゃ」
 藪から棒に出た話題に僕が目を丸くすると、新川は笑った。
「お前もう30過ぎだぞ。仕事だって出来る、給料はいいし、顔も性格も悪くないんだ。嫁をとれ、嫁を」
「……考えたこともなかった」
「まあ、ずっと弟がいたからな」
 もうそんな歳だったか。僕も老けたもんだ。
 だけれど、僕には司がいる。他の人が入る余地なんて、僕にはなかった。
「弟だって、そろそろ家出るだろ」
「え?なんで」
 新川の言葉に僕はさっきよりも驚いていた。司が家を出ることなんて、それこそ、一瞬でも考えたことはない。
 一生ずっと2人で暮らすのだと、そんなあり得ないことが、あり得ない事だと気付いたのは今だった。
「弟だって18だろ?彼女の1人や2人出来てもおかしくないだろ……っていうかこないだ見せてもらった写真、お前の弟ほんとイケメンだよな。女子からモテんじゃないの?」
「……」
 僕は何一つ答えられなかった。
 司に女の気配は少しもなかった。バレンタインもクリスマスも正月も、イベントの全ては僕と過ごしてきた。
 でも、そうだ。あんなに可愛くてかっこよくて最高の司が、女子にモテないわけがない。
 では、僕の知らないところで知らない女と……。
 そんなことを想像しただけで僕は仕事が手につかなくなる。

「ま、まあ今すぐの話じゃないだろうし、それよかほら、誕生日祝うんだろ?ちゃんと祝ってやれよ」
 新川にそう背中を押され、定時で退社した。
 ケーキを取りに行って、ケンタに寄って……そんな事を考えながら駅に着くと、肩を叩かれた。
「司?!」
 振り返るとそこにいたのは、制服姿の司だった。司の学校はここから二駅ほど離れているし、携帯になんの連絡もなかった。
「荷物持ちに来た」
「そんな、お前の誕生日なんだから……」
「兄貴一人でケーキとケンタ持てないだろ」
 そう言って笑う司は、なんて気の利く子だろう。やっぱり天使だったんだと、僕は毎日確信した。

 ケーキもケンタも無事買って、二人で帰宅する。一緒にただいまを言い、一緒におかえりを言う。
 そんなささやかな幸せを、新川の言葉が蝕んだ。
『弟だって18だろ?彼女の1人や2人出来てもおかしくないだろ』
 どうしても表情が強張る。
 でも、当然の事だった。僕たちは兄弟で、一生一緒にはいられない。司だって、そんなこと望んでいない。

「誕生日おめでとう、司。これ、誕生日プレゼント」
 ごちそうの乗ったテーブルに、もう一つプレゼントを加える。時計の入ったプレゼントの箱を、司はマジマジと見つめた。
「誕生日プレゼントいらないって言ったのに」
「まあ、でも、そう言わずに受け取ってよ」
 僕が言うと、司は渋々受け取った。箱を開けると、嬉しそうに微笑んで腕につける。
「俺、本当はもっと欲しいものがあったんだ。誕生日プレゼントの代わりに貰おうと思ってて」
「そうなんだ?言ってくれれば、僕の出来る事なら、なんだってあげるよ」
 司はあまり、そういう事は言わなかった。およそ子供の欲しがるものも高校生がしたがることも、付き合い程度にとどめて、ほとんど物をねだる事がなかった。
 だから僕は、司になにかをねだられる事が嬉しかった。
 正面に座っていた司は、僕の横に座った。
「俺、時々すごい昔のことを思い出すんだ。俺がまだ赤ちゃんの頃」
「覚えてるんだ?」
 僕も赤ちゃんの頃の司を思い出しては、今の司の姿によく育ったものだと、親心的に喜んでいた。
「まあ、もしかしたら夢で、本当はなかったかもしれないけど」
 司は照れて恥ずかしそうに言った。それから司は僕の耳元に囁く。
「兄貴とキスする夢、よく見るんだ」
 それから司の手が耳から頬に触る。僕の顔が司に向けられる。
「夢なら俺のファーストキス、だ」

 重なった唇は、さっき食べたケーキで甘い。
 とろけるキスを、司は僕に繰り返した。

「愛してる、天(ソラ)」
 司が僕の名前を愛おしげに呼んで、再び唇を重ねた。
 僕は天使から、ファーストキスだけでなく他にも大事なものを奪ってしまったかもしれない。
 贖罪しようと司に尽くして来たけれど、きっと僕は神様から許されないだろう。
 この幸せのためなら、地獄に落ちたって構わない。
 僕は目をつぶり、司に全てを委ねた。

終わり