片道切符/キンモクセイ

 金木犀の可愛らしい花が水面に散った。川を流れて行く様を、僕は静かに眺める。
 秋と冬とが入り混じる、少し肌寒い季節。このころになるといつも思い出す事があった。
 大切で儚い、淡く柔らかい。そんな、脆くて壊れそうな記憶。

「先生、呼びましたか」
 カコン、カコン。庭の鹿威しが定期的な音を繰り返す。明星(アカセ)は襖を静かに開け、視線は床に落としたまま聞いた。
「今晩は随分と冷えるだろうね」
 僕がそう言うと、彼はぎこちなく一瞬固まり、か細い声で「そうですね」と呟いた。
「温めてくれるね」
「わかりました」
 彼はなるだけ感情のない声で言うと、襖を閉めて行ってしまう。少しもこちらを見てはくれないのだから、随分と嫌われたものだ。
 彼は僕の手伝いに来た奉公人だった。彼は四、五歳になる頃からうちに来ていた。そんな幼い時から僕の身の回りの世話をしてくれている。
 僕はと言えばしがない物書きだった。親の遺した財産を食い潰しながら、趣味の書き物に没頭している。雑誌に載せてもらったり、戯れに本にして見ても、売れ行きはイマイチの代物だった。
 そんな僕の側に使える明星は、周りから好奇の目で見られていた。その想像は概ね合っているのだから、僕の行動すら人の想像から外れない陳腐でありふれたつまらないものなのだ。

 そんな自分を嘲笑いながら、また駄文を書き進めて行く。なかなかに筆が進まないが、あれこれ策を巡らすのが楽しかった。
 金持ちの道楽だと揶揄されてもその通りだから返す言葉もない。
 そうこうしているうちに外は暗くなり、やがて夜が訪れる。
「月篠(ツキシノ)さま、お夕食をお持ちしました」
 静かに襖が開いて、明星が盆に乗せた夕食を持ってくる。彼は出来た奉公人だった。彼一人で、普通四、五人ばかりの作業をこなしてしまう。僕には勿体無いほどの人材だった。
「ありがとう。君も食べるだろう」
 さして進んでいない書き物を下に退かし、そこに夕餉が並べられる。
 今夜は秋刀魚の塩焼きに茶碗蒸し、透き通るお吸い物に炊きたての白飯だった。
「いえ、私の分は用意がないので」
 頭を下げて去ろうとする、彼の右手を掴む。難なく掴める細い手首、今は傷さえ作らなくなった過去の火傷や切り傷のついた指先。そこに唇を寄せると、明星はびくりと動揺を見せた。
「なら、食べさせてあげるよ」

 歳は十八だったが、平均よりは華奢に見える。そんな彼を僕の膝に座らせようとしたが散々「それはダメです、出来ません」と断られ、仕方なく横に座らせた。
 箸で秋刀魚の身をほぐして左手を添え、彼の口元に運ぶ。小さく控えめに開けた口がぱくりと食いつく様子は見ていて楽しかった。
「美味しい?」
「ええ……あの、自分で言うのも、なんですが」
 自分の作った料理を自分で美味しいと言うのが恥ずかしかったらしい。頬を赤く染める彼の顎を指で捉え、唇を重ねた。
「ちょうどいい塩加減だね」
 舌に残るほのかな塩味に僕が言うと、彼は目をそらした。
「月篠さまも、食べてください……ちゃんと」
「食べさせてくれるだろう?」
 僕がそう聞いて、木製の匙の柄を明星に向ける。彼は一瞬戸惑ってから、受け取り、茶碗蒸しの皿を取った。
「熱くないか、味見して」
「先生は猫舌でしたね」
 彼は匙に乗せた一口の茶碗蒸しに、ふーふーと息をかける。それからやはり控えめに啜るようにして口に含んだ。
「熱くない?」
「ええ」
「本当に?」
 用心深く聞く僕に、彼はほんのすこしだけ笑った。僕はまた彼の顎を指で捉え、唇を重ねる。
 間際に、「味見させて」なんて適当な事を言いながら。

 僕はもう、トイレや風呂の用事以外ではずっと部屋から出ていなかった。眠る前の時間に障子を開け、星の輝く空を見上げる。
「君は何処にいるのかな」
 布団を整える明星に聞くと、彼は首を傾げた。
「……私は、ここにいますよ」
 きっと深い意味もなく、答えてくれる彼の優しさにはいつも心臓が熱くなり、鼻がツンとするようで、それが心地よくも、嫌いでもあった。
「そうだね」
 僕は障子を閉めて、布団に横になる。
「ああ、今夜はよく冷える」
 手を伸ばして彼に向ける様は、母をねだる赤子のようではないか。
 僕がそうすると、彼は出来るだけ感情を殺したようにして、視線を床に落とし静かに僕の腕に抱かれた。
 腕の中の小さく華奢な熱が、僕はこの上ないほど愛おしかった。

 甘い声で泣き縋る。指に絡みつく体液がいやらしい。絹のような肌に唇を落とす。跡をつけるのが惜しいくらい綺麗だから、僕はなるべく傷付けないようにした。
「月篠……さま……」
 僅かに上擦った声だけが、夜伽の彼の感情を表しているようだった。
 僕はそれが嬉しくて、彼を高める事だけに勤しんだ。

 朝は嫌いだった。星も月も見えなくなってしまう。
 庭に金木犀と銀木犀の木を植えたのは、彼を見送ってからだった。
 肌寒い十月の終わりの頃、駅に電車が滑り込む。人の少ない土地だから、他に客はいなかった。
 なんて言えばよかったのか、今でも言葉を考えてみるが、どれもしっくり来なかった。
 あの時、なにか気の利いた台詞でも言えていれば。そんな人間だったなら、僕の本はもう少し売れていただろう。

 好きだ。
 行かないでくれ。
 忘れないで。
 戻っておいで。
 いつまでも僕はここにいるから。
 僕はここからどこにも行けないから。
 ずっと、愛してる。

 僕が彼に最後に渡したのは、一人分の片道切符だった。
 言いたいことは何一つ言葉に出来ないまま、僕はそれを手渡した。
「先生、ありがとうございました」
 切符を受け取る彼の指が少しだけ触れた。
 駅からの帰り道、日が暮れて夕と夜とが入り混じる。そこに彼の姿を見つけた。
「君は、そこにいるんだね」

 金木犀の匂いが僕を寂しい思いにさせる。僕は星空を見上げながら、今夜もまた一人、思い出に浸った。

終わり