この渇きを癒して/近付く靴音/倒錯

この渇きを癒して
近付く靴音
倒錯

 近所に893が住んでいる。
 おれはいじめに遭っていて、ナイフを渡され命令された。
 それで893を刺してこいよ、そしたらお前のこと認めてやる。もういじめない。

 放課後の帰り道、いつも入口のところで強面の893たちにお勤めご苦労様ですと出迎えられている男がいた。
 そいつはスーツを着ていたがオールバックで、服の上からでもわかるほど鍛えられた肉体をしていた。
 こんなナイフじゃ傷一つつかなそうな強靭な身体。おれはごくりとつばを飲んで、その瞬間を待った。
「若頭、お勤めご苦労様です」
 黒塗りの車からあの男が出てきた。おれは息がハアハアと上がっていて、その男だけをめがけて走り出した。
「ああああああああ!!!」
「なんだ」
「鉄砲玉か」
「やめろ馬鹿」
 飛び交う怒声と、たった一つの大きな衝撃。目の前がグルンと回り、おれは気を失った。

 冷たい床が心地よい。
 脳みそがぐわぐわと揺れて、気持ち悪い。
 身体の自由はきかなくて、手足がねじ曲がっているようだった。
 カツカツと近付く靴音がする。そちらに目を向けようと顔を向けると、頭を踏みつけられおれは床にキスをした。
「名前を言え」
 頭は踏みつけられたまま、男に聞かれた。
 あの怒声の中、やめろと言っていた声だった。
「……イヅキ」
 舌が痺れるようだった。顎を殴られたらしく、口を開くと震えるようでうまくしゃべられない。
「名字か?名前は」
「……」
 汐見イヅキ、それがおれの名前だった。けれど名字を言えば家族に危害が及ぶかもしれない。そう思って口を閉ざした。
「汐見イヅキ、どうして素直に答えない」
 パサリと目の前に手帳が落とされる。それはおれの生徒手帳だった。おれの小さな抵抗なんて杞憂に終わった。
「誰に命令された」
「……クラスメイト」
「クラスメイト?」
 足がどけられ、男がしゃがむ。
 そこでようやく、おれの頭を踏んでいたのは若頭と呼ばれていた、おれが刺そうとしていた、その男だと気付いた。
「嘘を吐くな」
「く、クラスメイトです……」
 男の目はおれの心を全て暴いてしまいそうに、まっすぐにおれの瞳を覗き込んだ。
 恐ろしくて目をそらすと、胸ぐらを掴まれ身体を起こされる。
 おれは両手を背中でくくられ、膝立ちになった。
 ブチブチとボタンが弾けて、ワイシャツの前を開かれる。
「イヅキ、お前の身体傷だらけだな。これもクラスメイトにやられたのか」
 男が、汚いおれの身体を見つめた。アザやタバコを押し付けられた跡が消えずに残っていた。
 胸に近い傷跡に、男の指が触れる。
「これは刺し傷か」
 その傷に触れられると、身体がびくんと震えた。もう塞がってはいるのに、その傷に触られるのは心臓をなぞられたように、嫌な気分だった。
「嘘は吐くな。どうして俺を刺そうとした?」
「クラスメイトに、893を刺してこいって、命令されて」
「いじめか」
「……」
 その言葉を口にするのは嫌で、おれは頷いた。
「俺を刺す勇気があるんなら、そいつらを刺す方がよっぽど簡単だと思うけどな」
 男はいいながら、少しだけ口角を上げて笑った。
 たしかにそうだった。けれど、おれにはそんな考え、とても思いつかなかった。
「……たしかに、あはは……はは、はははは……」
 そうと気付くと、なんて馬鹿馬鹿しいことをしたんだと思った。
 それがおかしくて、おれは笑い出していた。笑って、泣き出していた。
「うえ、ひっ……うう、うっ……」
「この傷もいじめか」
 男の指が身体の傷をなぞっていった。
 半分はそうだった。でも、半分は違った。
「違うのか」
 答えないおれを見て男が気付いたようだ。なぞる指が、一つ一つを丁寧に辿っていく。
 新しい傷、古い傷。古い傷、古い傷、古い傷。胸の、切り傷。
「虐待」
 男の言葉に身体がびくっと反応した。
「……お前って、不憫なやつだな」
 憐れみ、慰み、男がそんな気持ちでおれの頭を撫でたのがわかった。
 それから男はおれの拘束を解いた。それからおれの手にあのナイフを握らせる。
「次は誰を狙うか、よく考えろ」

 893の家から放り出された次の日。おれナイフを持って学校に行った。
 人目の少ない体育倉庫の裏で、いつものように殴られて、それからおれはナイフを取り出した。
 手の中の柔らかい感覚に、身体が震えるようだった。
 ナイフがおれをいじめるそいつに突き刺さると、あいつは泣いて叫んだ。
 おれにはそれがセックスに思えた。泣いて喘いで、無理やり突き刺して、おれはあいつをレイプしている。
 何度も、何度も、内臓をかき混ぜて。

「本当に出来るなんて思ってなかったよ。見くびってた」
 拘置所に迎えに来たのは、あの893の男だった。

 父親、おれを虐待していた人間はしばらく前に死んでいた。それから親族の家を転々として、最後には適当な家をあてがわれ、一人で暮らしていた。
 おれをそそのかした事と、遠い遠い親戚関係にあったあの893がおれを引き取りに来たと、迎えの黒塗りの車の中で教えてもらった。

 おれはおれの手を見つめていた。まだ感触が残っているようだった。
「イヅキが刺した相手の少年、一命を取り留めたそうだ」
「ねえ、人を殺したこと、ある?」
 おれが聞くと男は眉を顰めた。
「なんだ、殺人未遂して一丁前気取りか。敬語を使え、馬鹿」
「人を殺したこと、ありますか」
 丁寧にたしなめられ、それに従うと男は、見覚えのある笑みを浮かべた。口角を上げて、小さく笑う。
「ないよ」
 肩をすくめて言う。
「セックスは?したこと、ありますか」
 おれの問いに、男はまた肩をすくめた。
「おれは、セックスした事がないけど、でも、あれは、あれはセックスだった……すごいんだ、何度も、刺すたびに喘いで、おかしいけど、あの瞬間からあいつがすごい可愛くて、おれ、止まらなくて、何度も、何度も、何度も、」
 思い出すと身体が熱くなって興奮した。
「ねえ、おれ、あなたともセックスしたいよ」
「……倒錯してんなあ」
 男は苦笑して、おれの頭を撫でた。やっぱりそこには、憐れみや慰めの意味が込められていた。
「ねえ、足りないんだ、お願い、お願いします」
 まるで喉が渇いたように、欲していた。
 初めてのセックスで、あの感覚が忘れられなかった。
 この渇きを癒して欲しくて男に縋り付く。
 車の中に置かれたフルーツバスケットに、キラリと銀に輝くフォークを、おれは目の端に見つけた。
 欲しくてたまらないんだ、今すぐにでも……。

終わり