桜/出会い

 もう、春が来ない事は知っていた。
 心臓が弱っていて、間も無く動かなくなってしまう。
 走ることも、出かけることも、笑うことも、泣くことも出来ない。どれも心臓が痛くて動けなくなってしまう。
 母の優しい嘘も、父の見え透いた強がりも、おれを思ってのことだった。それがわかるから、おれはますます心臓が痛い。


 死ぬ日を待っていた。なにをしても心臓に負担がかかるから、テレビも読書もしなかった。辛気臭いこの部屋に来る人はほとんどいない。母や父に、「辛いなら来なくていいよ」と冷たく言ってしまった。後悔しても心臓が痛いから、もう考えなくなった。
 なにか思ったり考えたりするのをやめて、ただ窓の外を眺めた。おれはまだそれでも生きているのだろうか。生きていたいのだろうか。
「サクラくん、おはよう」
「おはようございます」
「今日は具合どう?朝ごはんは食べられたかな」
「はい」
 担当の先生が来て、おれの身体を起こす。背中を向けて、裾から入れられた聴診器が当てられる。先生の手で温められたそれが、おれの弱い心音を聞き取る。
「まだ聞こえますか」
「聞こえているよ」
「そうですか」
 初めてそう聞いた時、先生は少し驚いた顔をして、それから笑って答えた。それからというもの、おれは毎回、同じことを聞いている。
「今日は天気がいいし、サクラくんの調子も良いみたいだから、少し外に出てみようか」
 もう外に出られるのは最期になるから?
 口に出そうになった言葉を飲み込むと、心臓が少し痛くなった。だけどきっと、口に出した方が痛い。

 先生はおれを車椅子に乗せて、病院の中庭に出た。柔らかい日差しと温かい風が心地良い。
「まだちょっと寒いかな」
 先生はそう言って白衣を脱いで、おれに着せる。さっきまで着ていた先生の温もりが残っていた。
「先生」
「シュンくん」
 中庭の向こう側から、誰かが駆け寄って来るのが見えた。その人は高校生くらいで、短い髪が屈託無く笑う顔をより幼く見えさせていた。
「こんにちは、良い天気だね」
「そうだね。ああ、こちらはシュンくん。今年16歳だっけ。でこちらがサクラくん。今年16歳だから、二人とも同い年だよね」
「そうなんだ。よろしくサクラ」
「あ、うん」
 いきなり呼び捨てたシュンに虚を衝かれ、おれは頷くだけだった。そんなおれをじろじろ見て、シュンはおれの左手を取った。
「俺のことも名前で呼んでよ、シュンって」
「うん?シュン」
「そそ。よろしく」
「うわ」
 反対の手がおれの頭をくしゃくしゃにして、それから逃げるように病室の方へ走っていった。
「回診きちゃうから戻んなきゃ。じゃね、先生、サクラ」
「危ないから走っちゃダメだよ」
 先生が注意すると、返事の代わりに何故か投げキッスをして戻っていく。まるで嵐のような男に、おれはしばらく呆然とした。
「……元気な奴ですね」
「そうだね」
 先生の手が、乱れたおれの髪を整え直す。
「彼、時々発作が起きて、記憶が飛んじゃうんだ」
「じゃあ、おれの事も忘れるんですね」
「忘れないよ」
 先生はおれの横にしゃがみ、おれの目を真っ直ぐに見つめた。
「誰も君の事、忘れないよ」
「……忘れてくれていいのに」
 小さく呟くと、心臓が痛くなった。

 その日から、シュンが病室に訪れるようになった。同年代の患者は少ないから、遊び相手に選ばれたのだろう。
 院内でなら自由の効くシュンは、漫画やジュースを土産にやって来ては、いろんな事を話したり、何もしないで居眠りしたり、そうして日々を過ごした。
 おれは、シュンと共に過ごす時間が少し怖かった。
 シュンが来るとドキドキして、心臓が痛くなる。シュンが病室に戻ると寂しくて心臓が痛くなる。夜はシュンを思って心臓が痛くて眠れない。
 ああ、こんなんじゃおれの心臓は早くに使い物にならなくなってしまう。
『大丈夫よ、あなたは長生きするから』
 心臓の病気が見つかってから母が言った言葉が、なお心臓を締め付けた。長生きして欲しいだろうな。
 だから、心臓に負担にならないよう色々捨てて来たのに。
「サクラ、大丈夫?サクラ」
 何時ものように病室にやって来たシュンが、胸を押さえて蹲るおれを心配して声をかける。ナースコールを押そうとするシュンの手を握った。
「大丈夫だから」
 苦しくて歪む顔を必死で取り繕う。
 嫌だった。シュンと一緒にいる事が心臓の負担になるなんて誰にも知られたくない。シュンを取り上げられたくない。
 ああ、おれはシュンが好きなんだ。心臓が、胸が痛い。今までで一番痛かった。こんなにも心を動かされるなんて。
「サクラ」
 シュンがおれを抱きしめる。どこか甘くて、あたたかい匂いがした。背中をさする手が優しくて、少しだけ落ち着く。
「お願い、シュン、もう少しこのままでいさせて」
「うん」
 その日はずっと、二人で抱きしめあった。
 ぬくもりが、匂いが忘れられなくなるまで、シュンを抱きしめた。

「二人は随分、仲が良くなったみたいだね」
 気がつくと眠っていたのか、午後の回診の時間になっていた。おれのベッドで、シュンと二人で眠っていたところを先生に見つかる。
「具合は大丈夫?」
「……はい」
「背中触るよ」
 いつものように、聴診器が背中に当てられる。ああ、でもシュンがいるから、いつもより心臓が早く動いているかもしれない。
 それがバレたら、シュンと会えなくなるだろうか。
「ん……サクラのおなかすべすべ」
「ちょ、シュン?!」
「おっと」
 寝ぼけたシュンが、服の裾から手を突っ込んでおれの腹を撫で始める。予想外のことについ声を荒げると、先生が聴診器を外した。
「ほらシュンくん、サクラくんがびっくりしてるよ」
 先生がぺちぺちとシュンの頬に触ると、シュンは呻きながらおれの腹に抱きついた。恥ずかしさで心臓が早く動いて痛くなる。
「サクラくん……シュンくん、手を離して」
「え」
 胸を抑えるおれに気付いた先生が声をかけるとシュンが目覚める。パッと手を離して、ベッドから飛び起きるシュン。
「いやだ」
 おれは手を伸ばした。
 嫌だ、痛いけど。
「シュン」
 戸惑いがちに、手を握り返すシュン。嬉しくて高鳴る胸が痛い。ずっと、シュンといると胸がずっと痛い。
「サクラくん、落ち着いて、大丈夫だから」
 先生がおれの頭を胸に抱きとめる。
「僕の心臓の音を聞いて。大丈夫だから、苦しくないよ」
 ドクンドクンという音が聞こえた。これが先生の心臓の音なんだ。不思議と落ち着いて、焦りで浅くなっていた呼吸も戻る。
「え、ずるい俺のも聞いて」
 なにがずるいのか、シュンもおれの頭に抱きついて胸を押し付けてくる。先生より少し早いドクンドクンが聞こえて来た。
「……はは、俺らいま超変な状況」
 おれの頭を挟んで、先生とシュンが抱き合ってる。たしかに、変な状況だった。

 次の日も、その次の日も、シュンはおれの病室に来て、ベッドで二人で横になる。
 なにもなかった。ただ見つめて、手を重ねた。
 それからシュンがおれの頭を抱いて胸に当てる。シュンの心臓の音を聞くと落ち着いた。今も心臓が早くなっているけれど、あまり痛くはなかった。シュンもおれと同じように心臓をドキドキ言わせてるのがわかるからかもしれない。
「ずっと、心臓の負担にならないように、怒ったり笑ったりもしないでいた」
「うん」
「でも、どんどん心が死んでいくんだ。心を殺して少しでも長生きするのが、意味あるのかな?そう、思うと心臓が痛いから、おれはなにも考えないようにした」
「ん」
「シュン。シュンといると心臓がドキドキしていつも痛い」
 おれの頭を撫でる手が、少し止まってまた撫でる。
「でも、シュンといたい。なにもしないでちょっと長生きするくらいなら、今シュンと笑って、死んだってかまわない」
 死にたいわけじゃない。ずっとシュンといたい。でも、シュンと笑って心臓が痛くなる方が、ずっと幸せだった。
「好きだよ、シュン。死ぬほど好き」
 シュンに強く抱きつく。匂いも熱も忘れないように。
「俺、時々発作が起きると、前後の記憶が飛ぶんだ」
 前に先生が言ってたことを思い出す。いつも明るいのに、今はどこか不安げなシュンの声が痛い。
「いつ発作が起きるか、そう思ったら怖かった。前後の記憶だけで済んでるけどいつか全部忘れたら?そう思ったらもっと怖くて」
 こんなに怖がりだったなんて知らなかった。シュンの手が震えて、おれの背中に縋るようだった。
「忘れたくないよ、サクラ。お前を好きだってこと。こんなに心臓が痛くなるくらい、好きなんだって」
 シュンはシュンの痛みがあったんだ。それを知って、おれは不思議と落ち着いた。
「大丈夫だよ、シュン」
 おれはシュンに言いながら、唇を重ねる。
 この熱をシュンはきっと、絶対忘れないと、そう思った。


ep
 春が来ると思い出す。窓の外で、沿道で、彼の姿を目にする。
 短くてあっという間の日々だった。心臓を患った彼は、俺に心地良い胸の痛みを遺して亡くなった。
 彼の墓は、桜の木の傍に建てられた。
 春に生まれた彼は、春を待たず亡くなった。早すぎる死とは言ったものだが、ちゃんと最期まで生きた彼は幸せだったと思う。
 最期にくれた手紙は今でも持ち歩いて離せない。唇に残る熱は、いつまでも忘れられない。

『最期に春と出会えてよかった。こんなにも幸せな胸の痛みを知れて。愛してる。桜』

終わり