添い寝

 初めから与えられなければ、失うこともないし、持っていないことを嘆くこともない。
 それが悲しいことだと理解するのに、およそ一生の時間をかけた。

 少年に名は無く、道端で横たわっていた。もう間も無く死ぬのだろうけれど、生を感じたことのない彼は死が怖くはなかったし、悲しいとも嬉しいとも思わなかった。
 肉と血と人を構成する成分で出来ているだけで、心も感情も携えない、彼はそんな生き物だった。
 そこを通りかかったのは「柿木(カキノキ)」という売れない小説家だった。なにかネタはないかとあてもなくぶらぶらと歩いていたところ、雑木林の中に捨てられていた彼を見つけた。柿木が雑木林に踏み入れなければ、ひと月かふた月もした頃に、屍肉の臭いを嗅ぎ付けた散歩中の犬が彼を見つけただろう。

 柿木は少年を抱き上げ家に連れ帰った。少しも動かない彼を最初は死体かと思い手を合わせたりもしたが、暗い目がゆらりと動き、微かに吐く息が草葉を揺らしたのを見逃さなかった。
 少年は酷く汚れていたので、柿木は着ていた上着で彼を包み、壊れ物を抱くようにした。柿木はなんの声もかけなかったが、少年もまたなんの動きもしなかった。

 それから二人の生活は始まった。生活というには、余りにも少年に「生」を感じられなかったが。
 柿木は少年を風呂に入れ、食べ物を口に突っ込み、夜は布団に寝かせた。朝が来れば顔を拭い、食べ物を口に突っ込み、書き物をする傍らに座らせた。
 まるで人形のようだったが、なにも映さなかった暗い目が、次第に動いて自身の動きを追っている事に気付いた。開けることも閉じることもなかった口が、食事を与える際に微かに開き、迎え入れるようになった。
 そうして、ほんのすこしずつ、人に成っていく様子に柿木は感動を覚えていた。

「時に、彼はいつまで経っても喋りはしないのだけれど」
 柿木は傍らの彼を見ながら、担当の編集者に聞いた。編集の野津(ノヅ)は十数年来の担当だった。独り身の柿木が突然少年と暮らしている事に驚いたが、時折世話を見たり、身の回りの必要品を揃えるのを手伝ったりとしていた。
「喋られないのですかね」
 野津は茶を啜りながら彼を見た。彼の目は柿木を向いている。
「名前はなんと言うのでしょう」
「さあ、言わないからね」
 柿木は無理に聞こうとは思っていなかった。なにか事情があって言わないか、言えないか、わかりはしないが。いつか彼が話してくれるかもしれない。知らなくても問題はないが。
「では、仮に名前を付けて、呼んでみてはどうでしょうか。もしかしたら言葉を知らないのかもしれません。赤子はテレビや親の喋る言葉を聴いて覚えると言いますし」
「それもそうか。では、名前を付けてやろう」
 柿木は顎に手を当てて、しばし考える。仮にとは言え、ちゃんとした名前を付けたかったが、思いつかない。そう言えば、雑木林で彼を見つけた時、雑草が生えていた。
「かたばみ。まあ、名前らしくはないかもしれないが」
 黄色くて小さい花の咲く、葉自体も花開いたような可愛らしい草だ。
「……相変わらずのセンスですね」
 野津が苦笑した。なにせ、同人時代の柿木のペンネームは「三年八年」というものであった。桃栗三年柿八年から来ているのはわかるが、それにしても、だ。
「おいで、かたばみ」
 柿木は手を伸ばし、そう呼びながら彼を抱いた。年はわからないが、柿木の膝に乗るくらいには軽く、小さい。
 彼はきっとまだ、それが自分の名前だと理解していないだろう。けれども、柿木が呼び続ければ、いずれはそれが自分の事を指すのだと理解する。

 その日々は、ひどく優しいものだった。日の差す縁側で、だらりと外を眺める。なにをするでもなく、時が流れるのを眺めていた。そんな日々だった。
「かたばみ」
 柿木が呼ぶと、かたばみが視線を向けた。かたばみにはその言葉が大切なもののように思えた。柿木が愛情を込めて呼ぶからだ。かたばみは「愛情」を知らなかったし、言葉すら知らなかった。
 それでも、日々、名前を呼ばれる度に注がれるそれが、かたばみは心地良かった。
 やがて、かたばみは言葉を覚えた。たどたどしく、柿木を「先生」と呼ぶ。初めて言葉を発した時、それは「えんせ」とか、「れんれ」とか違うものに聞こえた。
 けれども繰り返し、その言葉だけを口にするかたばみが愛おしかったし、柿木を呼んでいるのだと理解した時には思わず涙した。
 かたばみの口にする言葉はそれだけだった。その一語だけで事足りるかのように。柿木はそれがくすぐったくも、嬉しくもあった。
 それからは自分の書いた小説を読んで聞かせた。膝の上に抱き、一行ずつ指で追っていく。わからない言葉はその都度、かたばみが指をさして柿木を見上げた。
 何も知らないかたばみに説明するのはとても難しい事だった。例えば、食事だとか入浴だとか、そんなものも知らなかった。遊園地、海、駅、公園。ああ、彼はそう言えば、ずっとこの家から出てすらいない。喜び、悲しみ、切ない、苦しい。それがどんなものなのか、どうしたら説明出来るのだろうか。
「ーーは愛情を感じた」
 かたばみが愛情に指をさす。
「そうだな、大切にしたいとか、大事な人だとか、そんなものだ」
 柿木は、それから、かたばみの頭を撫でた。
「私はね、お前にこれを与えられたらと、お前が感じてくれたらと、思っているよ」
 いつか、わかる日が来るだろうか。言葉や文字で説明出来ない、この温かいものが、かたばみにも。
 柿木は己に未熟さを感じて、かたばみをただ抱きしめるしか出来なかった。



「かたばみ」
 呼ばれた気がしてかたばみは目覚める。
 初めから与えられなければ、失うこともないし、持っていないことを嘆くこともない。
 与えられてからは無くなる一方だ。
 昨日、先生は火葬された。骨になって小さな箱に詰められ、今では熱もない。
 かたばみはベッドの上でしくしくと泣いた。
 いない人の匂いが、いつも隣で添い寝していたその人が、今も抱きしめてくれているようだった。けれど、ベッドのもう半分の冷たさが、失われた事を突きつけてくる。
 ああ、なんて事だろう。
 かたばみはしくしくと泣き続ける。これが愛情と言うのなら、こんな苦しくなると言うのなら。
「先生……」

「かたばみ、先生が君に遺した本だよ」
 暗い部屋、名前以外なにも持たないかたばみが、野津に手渡された本を開く。押し花にされた黄色い花がしおりに挟まれたページを開くと、一文が目に飛び込んだ。
『黄色い小さい花を彼に贈る。どうか、君の心が満たされますように。かたばみの花言葉は、喜びと言うそうだ。』
「ああ……ああ……」
 かたばみは、こみ上げるものを抑えきれず嗚咽をもらした。

終わり