投げキス/アイスクリーム

 いいよ、初恋は君にあげる。他のものは全部好きにして。

【×××】

 クラスの女子がキャアキャアと騒いでうるさい。僕は冷たい机の天板に頬をぺたりと付けて、そちらの方を横目で見た。
 教室の入り口で、安形(アガタ)が投げキスをする。それに湧き立つ女子達の様は、さながらアイドルの追っかけのようだった。
 そのキスは女子達の上をふわりと飛んで、僕に向けてるってわかったら、僕は彼女らに殺されてしまうかな。
 なんて一人でほくそ笑みながら、僕もやおらに立ち上がり、鞄を持って教室を後にした。
 決して追いつかない速度で安形の後を追う。見えないけれどこの角を曲がった先に、この一本前の電車に、この道の先に、この扉の向こうに、安形はいるんだ。
「おかえり」
 玄関の扉を開けると、安形は壁に寄りかかり、腕を組んで僕をニヤニヤと見下した。こんな表情、クラスの誰も知らないんだ。そう思うと優越感で興奮しちゃう。
「……ただいま」
 僕はなるべくそんな表情をしないように、クラスの隅で陰気臭く過ごすオタクキャラのように言葉をどもらせて小さな声で答えた。怯えて恐れてちっぽけな僕を、安形は望んだ。
「脱いで」
「……」
 僕はその命令に、ぎゅっと鞄の取っ手を握った。ああ、そうか、そうだ今日は……。
「早くしろよ、愚図」
 冷たい声が突き刺さる。
 冷たい安形が好きだ。僕にだけ辛く当たる安形が好きだ。
 でも、傷付かないとは言ってない。

 鞄を床に置き、シャツのボタンを一つずつ外し、雑に畳んで安形の足元に置く。一瞬ためらってベルトに手をかけ、引き抜き、それも安形の足元に置いた。前を寛げたズボンに手をかける最中、安形はベルトを手に取る。
 適当な長さで手に持ち、もう片方の手のひらに軽く当てて感触を確かめている。それを盗み見ながら、僕はさすがに血の気が引いた。
 前にベルトで打たれたときの事を思い出す。あの時は背中だったが、しばらく寝返りも打てないほど痛みが続いた。
 僕はマゾヒストではない。
「いや、別に打たねえよ、そんな怯えなくても」
 今日は、な。
 意味深に含んだ言葉を付け足して、それからベルトを伸ばした。僕がその頃ようやくズボンもパンツも脱いで靴下を下ろすと、安形は指で僕に後ろを向くよう示した。
 安形から目を離すのは少し嫌だけれど、命令だから従うしかない。
 後ろを向いた僕の腕を背中側で束ねられ、そこに革のベルトが巻きついてキツく締められる。
 このベルトは去年の誕生日に、安形から貰ったプレゼントだ。こんな事に使うために買ったのかと思うと、中々なセンスをしているよ。
 ベルトながらに重たい枷が付けられた腕は不自由で動かせない。そんな僕の不自由をもう一つ足すべく、安形は自らのしていたネクタイを外し、僕の目元に当てた。
「泣いて汚すなよ」
 と言う安形の言葉に従えそうもない。僕はこのネクタイを安形が身につけていたと思うだけで、安形の物を僕に付けてくれると思うとそれだけで泣きたくなる。
 僕はどうしようもなく安形が好きで仕方ない。

 背中を押され、転ぶように部屋に押し込まれる。直前、耳元で囁いた安形の声を忘れないように頭の中で何度も反芻させた。『しっかり稼いでこいよ』君が望むなら、なんとでも。
「ああ、やっと来た」
「遅えよ」
「安形も来いよ」
「いや、俺がいたら邪魔しちゃうんで、先輩らで楽しんでください」
「なんだつれねーの」
「ま、いいよ、やっちまおうぜ」
 パタンと閉じた扉の向こうにいる安形の姿を思い、声を思い、熱を思う。
 肌に触れた指先は安形には似ても似つかない。それが僕には救いに覚えた。
 僕は身体を誰とも知らない人たちに差し出す。四つ這いになって前から後ろから、何度も何度も。
 安形、僕はこの人達を君の代わりにする事は出来ないようだ。

「ああっ……ああっうううっ」
 誰かの手が身体に触れる。もう無理だ、もう出来ない。でも僕の口は拒絶する言葉を吐き出せない。そう躾けられていたから。
「靖都(ヤスクニ)、終わったから風呂」
 その声でハッとする。安形の声だった。
 ああ、そうか終わったんだ。泣きたくなるのを必死にこらえたけれど、今更涙を堪えたところで、安形のネクタイは精液やその他の汁でとっくに汚れていた。
 そのネクタイを安形の指が丁寧に解いて外す。僕の腕を拘束していたベルトも外された。
 そのせいで汚れた安形の指が僕は気になった。じっと見つめていると、安形は指を差し出す。それを僕は舌を伸ばして舐めた。知らない誰かの精液が汚した安形の指を綺麗にするために。
「よくやるよなあ……」
 安形が呟く。それが何のことを指しているのかはわからなかったが、僕が過ぎるほど丁寧に指を舐めると安形は少し微笑んで僕の頭を撫でた。そのお陰で手についた精液だって、僕は余さず舐めとり飲み込む。
「キリがない。風呂入ろ」
 安形は僕から手を取り上げ、立ち上がった。部屋から出て行くから、僕も慌てて立ち上がり追いかける。
 散々貫かれた穴は擦れた違和感と腫れによる熱があり、歩くのがぎこちなくなる。そんな僕を安形は笑うので、僕もつられて笑った。

 僕と安形は幼稚園からの幼馴染だった。その関係はずっと続いていた。
 僕たちが高校に進む頃、僕の親の転勤が決まった。離れ離れになるのを惜しんだ僕たちは懇願して、安形の家の離れに二人で暮らす事になる。
 何かが壊れ始めたのはその頃からだった。安形は顔が良くて性格も明るい。何度か雑誌のモデルになって、女子達の人気はそれはもう凄いものだった。
 そんな安形に目をつけた二、三年の先輩方から守るため、僕はこの身を差し出した。僕の大好きな安形が穢されるくらないならと。
 それからと言うもの、安形は僕に冷たく当たるようになった。けれども僕の居場所はここにしかないから、そんな安形も纏めて好きだよと、そんな言葉を胸にしまった。
 好きだよと言うと、安形は傷付いた顔をする。そんな顔させるくらいなら、僕はこの想いだって飲み込んだ。



 椅子に座る安形の足元に跪き、安形の差し出すアイスクリームを舐め取る。まるで安形に奉仕しているみたい。
 まだ六月だというのに、日中の温度は三十度近くにも上がった。大学の講義も今日はなく、二人でダラダラと過ごす。溶け落ちるアイスクリームのように。
 誰とも知らない人達に身体を差し出す日々は、彼らが卒業するとそんな毎日も終わりを告げ過去となった。
 けれど一番欲しい、誰かではない「誰か」の熱は与えられないままだ。つまりは、安形の事だけれど。
「……靖都はフェラ、上手そうだよな」
 アイスクリームを食べている僕の唇に指を差し込むから、アイスの冷たさと人の体温の温かさで僕の口の中が混乱する。溶けたアイスが口の端から落ちるのを、安形の指が拭い去る。
「安形の彼女は、上手じゃないの?」
 安形の指を舐めて綺麗にして、またアイスに齧り付く。残りの一口を口に含むと思ったより大きくて、キンと頭が痛んだ。
「あんましてくんないしな」
 アイスを飲み込んだ僕の口に、アイスの棒を突きつける。舌を出して舐めると、前後に動かすから僕は咥えて吸い付いた。
 大学に入ると安形の女子人気は落ち着いたように見えた。表立って騒ぐ女子は少なかったが、サークルやゼミの女子とくっ付いたり別れたりを繰り返していた。
 僕は違う大学に通っているから、その実態は詳しくは知らない。けれど、家に連れ帰って来ることはないのが、嬉しいような、寂しいような、妙な気分だった。
 僕たちの、この不自然な関係が、浮き彫りになるようだ。僕たちは一体、何なのだろう。
「僕が彼女に教えてあげようか」
「俺のちんこ使って? ははは」
 笑う安形を見つめながら、僕はアイスの棒にキスする。舌を這わせて、根元に、安形の指に口付ける。
 教えてあげようか、なんて言いながら、僕はもう性的なあれやこれから久しく離れていた。過ぎる性春の反動とでも言うか、僕の性欲は見事に安形にしか反応せず、それすらも見ないふりを突き通したから、僕はほとんど不能に近い。
 女を抱くことも、男に抱かれることもなく、安形だけを思い、過ごした。

「それとも僕がしてあげようか」
 僕は安形の手にキスをしながら聞いた。細い手首に長めに吸い付いて、キスマークもどきのような赤い痕をつける。無抵抗な安形の手を掴んだ。安形の手は震えている。
 それから熱を孕んだ股間の膨らみに顔を近付けた。これまで一度だって触れたことはない。僕が待ち焦がれ続けた熱が、そこに。
 ガツッ。
「うっ」
 こめかみを安形の手が横殴りにした。僕は痛みよりも驚きで硬直して、その場を立ち去る安形を追いかけられなかった。何も言わず出て行ってしまう。
 安形はあの高校の日々をなかった事にしていた。まるで普通の友達みたいに、何事もなかったみたいに、健全な高校生活を過ごしたと言わんばかりに。
 だから僕も無かった事にしたのに。
 綻ばせたのは安形じゃないか。
「安形……」
 これが怒りなのか悲しみなのか、僕にはわからなかった。目頭が熱くなる。あの時以来僕はもう、ずっと泣いていない。
「君が好きなんだ」
 もう、ずっと飲み込んできた言葉を僕はようやく吐き出す。この言葉が安形を傷付けるならと、僕は口を噤んできた。でも、それでも安形は傷付いているじゃないか。
「君が好きなんだよ」
「なんで俺なんか好きなんだよ、頭おかしいだろ」
 安形は振り返ることもしないで声をあげた。肩を震わせて、きっと怒りで耳が赤くなっている。
「仕方ないだろ、初めて好きになったんだ……嫌いになれるかよ」
「頭おかしいだろ」
 安形が俯いて顔に手を当てた。なにかと思えば鼻をすすり出して、どうやら安形も泣いてるようだった。
「人を好きになるって、そんなもんだろ」
 僕が安形を抱きしめてそう言うと、安形は「初恋のくせに知った口を聞くな」と笑った。安形も初恋じゃないのか、と、言う言葉はしょっぱいキスで塞がれた。

終わり


このあと五年越しのお清めセックスをした。おわり