言霊/キスのその先

 空木(ウツギ)キオの家系は、古くから狐憑きと呼ばれた。狐憑きとは、現代ではいわゆる精神疾患の事を指していると解釈されているが、その村ではそうではなかった。
 村のはずれ、山の麓に堅剛な蔵があった。窓はなく、天井付近にある明かりとりから僅かに日が差し込むのみで、中は殆ど常に暗闇だった。
 蔵の入り口には頑丈な鍵がかけてあり、村長が代々鍵を受け継いだ。日に二度、朝と夕に世話の為に解放される。
 蔵の中には空木キオが幽閉されていた。首輪が嵌められ、それに繋がる鎖は壁に据え付けられている。それに触れるたび、村長は気が狂いそうだと思った。
 日の光を浴びずに育った肌は真白く、枝垂れる髪は艶やかで、瞳は深淵を臨むように昏い。村にいるどの子供も女も敵わない、妖艶さだった。
 ごくり、喉を鳴らして村長が手を伸ばす。この細い首を、腕を、身体を、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。喉が乾くような衝動に駆られた、瞬間。
『触るな』
 凛と澄んだ声がしたかと思うと、村長は身体がガクンと重くなり、伸ばした手を地面についた。何が起きたのか、村長が辛うじて顔を上げるとゾクリと背筋を這うような恐怖に見舞われた。
 あの、死んだような瞳をしていたキオの目が、妖しく金に光り、こちらをジロリと睨んでいる。
『去ね』
 確かにキオの口が動いたが、声はどこか違う方から聞こえたような気がした。けれども、そんな事を考える余裕もなく、強張った身体は急に体温が下がったようにガタガタ震え、呼吸は詰まり、その場から立ち去らねばと焦燥に駆られる。
 かくして村長は転げるように蔵から出て、急いで蔵の鍵を閉めた。
 蔵から出るとさっきまでの震えは治まり、梅雨時だと言うのに炎天の太陽に焼かれ、ポタリポタリと汗が地面にシミを作った。
 暑さで立ちくらみでもしたのだろう。村長はそう結論付けて、蔵から立ち去った。しかし、忘れようにも忘れられない、あの金の瞳を思い出すとブルリと震えが蘇るようだった。まるで、狐に化かされたように……。

「上手くなったじゃないか」
 蔵の中で誰かがぽつりと言った。
「言霊を使うのは疲れる」
 ため息を吐きながら答えたのはキオだった。
「そりゃそうだ、言霊は力を使う。運動するのに筋肉を使うように、言霊を使うのに霊力を使う」
 ポワポワとどこからか火の玉が現れ、お手玉をするようにくるくる回り出し、やがて両手に乗るくらいの火の玉となった。
 その炎が照らし出したのは、狐の面を着けた男の姿だった。男は着流し姿で、胸元が少しはだけていた。
「使えば使うほど強くなるから、よく練習したまえ」
 まるで先生ぶった言い方に、キオはこっそり笑った。
「でもイツミ、今日は本当に疲れてしまったんだ」
 だからお願い、とキオは両手を広げておねだりした。暗闇の中だったが、イツミと呼ばれた狐面の男には問題なく見えている。
 イツミは火の玉をクルクルと回すとそれは消え失せる。そうしてから、キオの方にスタスタと歩いていった。
「キオは甘えん坊だな」
「甘やかしてくれるのはイツミだけだもん」
 クマのぬいぐるみのように、ぺたりと座って両手を広げるキオ。その前に膝をついて座り、抱きしめるイツミ。
 キオはこの瞬間がたまらなく好きだった。この蔵の中で自分に触れるのは、後にも先にもイツミだけであってほしいと願った。
「イツミ、ちょうだい」
「いいよ、キオ」
 イツミの指がキオの頬を撫でる。それから唇に柔らかいものが触れて、それから熱が割って入る。深い深い口付けに、キオは脳まで溶けてしまいそうだった。

「ねえ、イツミ、ずっと待ってたんだ。ちょうだいよ、キスのその先を」
「まだキオには早いと思うけどねえ」
「お願い、イツミ」



 その村には古くから狐憑きの家系があった。生まれた時から強固な蔵に閉じ込めるのがしきたりだった。狐憑きは歳が十六を過ぎた頃になると、男も女も関係なくいつの間にか子を孕んだ。
 そうして生まれた子を置いて、狐憑きはいなくなってしまう。そしてまた新しい狐憑きを蔵の中で育てる。
 狐憑きを生かしているのか、それとも狐憑きに生かされているのか。
 狐憑きのいるその村は、どこかでひっそりと存在している。

終わり