心配事/磁石

 だってほら、俺、幽霊だし。

 自分が死んでいた事に気付いたのは3日前だった。
 自分が死んでいたのは、3ヶ月も前の前の事だった。
 そんなことあるかよ、って思うかもしれない。けれども俺は死んでいた。死んでふよふよと浮かんでいた。いや、浮かべる事に気付いたのは3分前のこと。

 死んでいても、案外気付かないもんだなあ、というのが率直な意見だった。死んだと言うのに、面倒臭い学校に毎日通い、面倒臭い授業を受け、友人との他愛もない時間を過ごす。
 死んだ前と死んだ後と、寸分も違いのない生活を送っていた。死んでいたという事実を除けば。

 死んだ事に気づかなかったのも、死んだ事に気付いたのも、友人のおかげだった。
 友人の月蔭(ツキカゲ)と、いつものようにくだらない放課後を過ごしていた。普段は俺の家か月蔭の家で過ごしていた。
「今晩親帰らないからどっかで食ってこうぜ」
「あーいいよ。ラーメン行こうぜ」
 がらがらがら。
「へいらっしゃい。一名様で?」
「「え?」」

 月蔭はゲラゲラ笑った。
「ぎゃはははは、まじかよお前死んでたのかよ、ウケる、ぎゃはははは、わ、笑い過ぎて、死ぬ」
「縁起でもねえ、死ね」
 嫌がる店主をよそに、ラーメンを2つ頼み、俺側の席に置いたラーメンに箸を縦にブッ刺す。
「しょうがねえ、オレのおごりだ。死ぬほど味わえ」
「馬鹿野郎、もう死んでる」
「そうだったなぎゃはははは」
 箸のブッ刺さったラーメン。俺は手を合わせて箸を取ろうと手を伸ばすと、スゥッと抜けてしまった。
「あれ……」
 右から、左から、気合を入れて掴もうとしても、俺の手は箸をすり抜けた。
「なんだ俺、マジで死んでんだ」
 試しに月蔭の頬に手を伸ばす。
 その手は月蔭をすり抜けた。
 俺を見る月蔭と、目が合う。
 俺はとても寂しくなった。

 それから月蔭は麺を箸で上げて、俺に食べさせようとしたり、俺の頭の上から下に投下させてみたりした。そんな事をすれば店主を怒らせ、月蔭は店から追い出された。
「丸と屋のラーメン好きだったのに、出禁だ」
「残念」
「あー腹減った。しゃあねえからファミレス寄るか」
「……」
 そこでもまた、月蔭はお一人様と呼ばれるんだろう。
 俺は本当に死んでしまったんだ。足はあるのに、この身体は、月蔭以外には見えていない。
 風さえも身体を通り抜けた。匂いも熱も、俺はもう感じないのだ。

 なんとなく家に帰りたくない俺は、月蔭の周りをふよふよと浮かんで過ごした。
 月蔭は死んだ俺に、死んでいない時と同じように話しかけた。
「飛匙(ヒサシ)、今週のジ◯ンプ読んだ?」
「読んでねえ」
「んじゃ読めよ、ロウキュー!!面白いから」
 差し出された雑誌は俺の手をすり抜けて、バサリと床に落ちた。
「はは、わりー、死んでんの忘れてた」
 床から雑誌を拾い上げる月蔭。
 月蔭はどうして気付かないんだ。クラスメイトの訝しげな視線を。大人たちの憐れむ視線を。
 俺が死んだのを、みんな知ってたんだ。
 月蔭は遂に気が狂ったと、みんな疑っている。
 それなのになんで、俺を見てまだ、笑えるんだよ。
「……だよ」
「あ?」
「そうだよ!!俺は死んでんだよ!なんで月蔭は笑えてんだよ!ばかじゃねーの?俺は死んでんだ。死んでるんだよ!この声だって、お前にしか聞こえてないんだ!!!」
 俺の叫び声は、教室の空気すら震わせない。
 どんなに全力で叫んだって、俺は死んでるんだ。

 月蔭が手を伸ばして、俺の頬に触れた気がした。本当は熱なんて感じてないのかもしれない。けれども、俺に触れている気がした。
「死んでるんだよな……」
 悲しそうに笑う、月蔭の目元がきらりと光る。
 それを拭おうと手を伸ばしたって、俺の手は月蔭をすり抜けた。

 俺たちはそれでも、一緒に過ごした。
 会話は少なくなったが、行き場のない俺は月蔭の側にいた。月蔭はそんな俺に、何も言わないでいた。
 俺は寂しかった。

「月蔭」
 放課後、帰り支度をする月蔭に担任の黒波(クロナミ)が声を掛ける。月蔭は手を止めて、黒波を見た。
「なんすか」
「その、なんだ。悩んでる事とかあったら、話せよ。誰でもいいから」
 黒波が月蔭の肩にトンと触れる。月蔭はそれを煩わしそうに払った。
「大丈夫っすよ、心配しなくても」
 それから月蔭は帰り支度の済んだ鞄を肩にかけ、早足に教室を出て行った。
「オレは正気だよ」
 独り言みたいに言うその言葉が、誰に向けられていたのか、俺にはわからなかった。

 家に向かう月蔭のあとをふよふよとついて行く。なにも会話はなかった。
 俺は不意に、立ち止まる。月蔭の通学路にある電信柱の横で、地縛霊になろうと決めた、わけではない。
 俺は気付いた。否、目を逸らしていた事を無視できなくなった。

 月蔭は生きていて、俺は死んでいる。
 それはどうしようもない事実であり、世の中は、世間は、そんな月蔭を「正気でない」と見なした。
 ああ、そうだ、俺は死んでいるんだ。
 いつまでこんな事を続けているつもりだ。俺は月蔭の後ろに付いて歩いて、取り付いているのかと。
 こんなこと、続けていいわけがない。
 月蔭は生きていて、俺は死んでいる。
 俺は、死んだんだ。

「おい」
「あっ、うん?」
 ハッと気付くと月蔭が目の前にいて、俺を睨んでいた。月蔭に人の目があるところで話しかけられるのは久しぶりな気がした。
「なに立ち止まってんだよ。そこで地縛霊になるつもりか?」
「……はは、それもいいかな」
 ばんっ、笑った俺の身体を突き抜けて、月蔭の手が電信柱を壁ドンする。
「……笑えねーや」

 俺が死んだことをネタに笑ったのは月蔭なのに。月蔭は怒っているのか、泣いているのか、俺にはわからない表情をしていた。
 それから月蔭が歩き出すのを、俺はその場で見送った。
 俺はそれから、俺の家に向かった。


 家の前に立った時、俺はゾッとするような、悪寒を感じた。
 家は元々嫌いだった。親は死に、兄とまとめて叔父に引き取られた。叔父という人間が苦手だった。明確な理由はなかったが、本能的な嫌悪感を持っていた。
 俺も、2つ上の兄も家にはあまり帰りたがらなかった。
 叔父は悪い人間ではない。会社の社長で、金に余裕があったし、だから成長期の男二人を引き取ってくれたわけで、その事には感謝している。
 けれども、家に帰ると、あの人のそばにいると、身体を蛇が這いずるような、窮屈で薄気味悪さがあった。
 それは死んだ今でも変わらないらしい。
 まだ明るい時間だと言うのに、その家だけはどんよりと薄暗がりの中にいるようだった。
 得体の知れない薄気味悪さに俺は一瞬躊躇ったが、そこに入る事にした。

「……ただいま」
 生きている時だってその言葉を言ったか定かではない。俺は玄関扉を通り抜けて中に入り、その言葉を言った。
 よく、招かれない客は家の中までは入れない、という類のオカルト話を聞くが、実際はこうもあっさりと入れるものなのか。
 それとも、ここは俺の家だった場所だからまだ入れるのか。
 あいにくおばけのルールに詳しくない俺は気にせず、家の奥に進んだ。
 二階建ての一軒家で、一回はリビングキッチンと、叔父の部屋があった。リビングキッチンは閑散としている。
 シンクに使った後の皿がいくつかあるから、食事はきちんと食べているようだ。
 俺はその事に少し安心して、少し寂しくなった。
 俺が死んでも、二人は元気でやってるようだ。
 それが嬉しくて、寂しい。

 俺は叔父の部屋には向かわず、二階に階段で上がる。
 上がりながら、俺はどこでどうして死んだのか考えた。
 俺にはどうしてもそれが思い出せなかった。

 ギシギシと軋む音がした。俺はそれを知っている気がした。
 階段を上る音かと思ったが、俺の足は、階段を踏みしめることはもう二度となかった。
 階段を登りきると廊下があって、そこに扉が2つ並んでいる。
 手前は兄の部屋で、奥が俺の部屋だった。
 ギシギシと軋む音がする。
 兄の部屋から。






「月蔭」
 月蔭の部屋、ベッドの上、寝ている月蔭に縋り付いた。
 正確にはすり抜けてしまうから、縋り付くように月蔭の身体に寄り添った。
「月蔭、月蔭、つきか、げ、つきかげ……」
 もうお前に俺の声は聞こえないだろうか。
 もう、もう俺は死んでいるから。
「月蔭……」
 身体が死んで、心も死んで、それでは俺は、今の俺は、一体なんだ。

「……んん、飛匙……?」
 月蔭は眠い目を擦りながら身体を起こす。けれども、月蔭の目は俺を正確には捉えていなかった。
「飛匙?いるのか?」
 月蔭の視線は俺の身体を通り抜けて、辺りをキョロキョロと見回した。
 俺はここにいるのに、ついには月蔭にすら、見えなくなってしまった。
「月蔭、俺が見えないのか。俺の声が聞こえないのか」
 縋り付くことさえ、許されないのか。
 俺は死んだから。

 悲観に暮れていると、月蔭は首を傾げてから、手を伸ばした。月蔭の手が俺の頭を撫でる。
「月蔭?見えるの……」
「見えないけど、なんかいるような気がすんだよな」
 そういって、月蔭と視線が合う。いや、見えてはいない。月蔭の視線は俺を突き抜けている。
「これでいなかったら、笑えるけど」
 月蔭は言いながら、俺をそっと抱きしめた。抱きしめるような素振りをした。
「いるような気がするんだよな……いるんだろ?」
「いるよ……」
 俺は泣きながら月蔭に抱きついた。抱きつく素振りをした。
 月蔭は見えない俺を、俺が泣き止むまで抱きしめる素振りをした。

 それからも月蔭は、俺のことが見えていないながら、「ここら辺にいる気がする」と言いながら俺を撫でたり抱きしめたりした。
 本当に見えてないのかと疑いたくなるが、時々見当はずれの場所を撫でてみたりするから、やはり見えていないのだろう。
「ポルターガイスト現象の応用で筆談とか出来ねえのかなー」
 月蔭がベッドの上に広げたノートとペンに、俺は触れてみようと試みたが、触れることはなかった。身体は通り抜けて、微塵も動く気配がない。
 月蔭は色々オカルト的な事を試してみた。
「幽霊には砂鉄がくっつくらしい」
 月蔭はそう言いながら部屋中に砂鉄をぶちまけたから、泣く羽目になった。
 暗闇でU字磁石を見つめ続けると霊視が出来るようになる、というオカルトを信じて買った大きめのU字磁石が、砂鉄集めに役に立った。

「お前ンチ行こう」
 しばらくして、遂に月蔭が言った。俺はいつか月蔭が、それを言い出すのを期待していた。
「よく考えたらお前が死んだ理由、オレは知らないんだ」
 放課後の帰り道、月蔭は相変わらず見えていない俺に話しかける。周りからの視線はいよいよ、気の狂った月蔭を軽蔑するような視線に変わった。
「ついてきてるよな?まあ、いいか」
 けれどもそれは、俺が死ぬ前からの、月蔭と俺との「信頼」から来るものだと最近理解した。
 生前そうだったことを、死後も変わらず、俺たちは続けていた。ただそれだけのことだった。

 薄気味悪い俺の家に着くと、月蔭は臆さずチャイムを鳴らした。ピンポーン、と音が響く。
 そう言えば月蔭をうちに最後に招いたのはだいぶ前の事だった。
「月蔭、ドア開いてると思う」
「ドア、開いてるかな」
 俺が言うと、呼応するように月蔭が呟いた。
 聞こえてはいない。
 けれども、通じてはいるようだった。



 兄の異変に気付いたのはほんの数日前の事だった。
 俺より先に帰っている事の多い兄は、リビングの椅子に座りながら、ぶつぶつとなにかを呟いていた。心配事に頭を抱えていた。
 思えば顔色が悪いようだった。俺が話しかけても返事はぎこちない。不意にぶつかったり触ったりすると過剰に反応する。
 異変に気付ける要素はたくさんあった。けれども、俺は気付けなかった。気付かないふりをしたのかもしれない。
 つまり俺は、兄を幽霊に仕立てたのだ。

 兄の様子がおかしくなって数日して、家に帰ると、なんとなく嫌な気分になった。
 虫の知らせだとか、違和感だとか、そういう物は意外と本当にあるらしい。
 薄気味悪さを感じながら、俺は階段を上がった。二人の靴があるのに、家の中は妙にシンとしていた。
 ギシ、ギシ、と階段を上がる。軋む音が不気味だった。けれど、その軋みが階段からではない事に気付いた。
 階段の一番上。兄の部屋の扉が少しだけ開いていた。
 ギシギシと軋む音がする。
 兄の部屋で、裸になった叔父と兄が、獣のように。



「飛匙?!」
 呼ばれた声にハッと意識が戻った時には、俺は階段を転げ落ちていた。
「大丈夫か飛匙?……って、ああ、お前死んでるんだよな」
 月蔭は階段を降りて俺の頭を撫でながら、そう言うと笑った。俺もなんだか笑えて、少し笑った。
「月蔭、俺のこと見えてるのか?」
「あ?ああ、見えてるけど」
「声も……」
「聞こえてる」
 ニカッと笑う月蔭。月蔭の手は確かに俺の頭を撫でて、俺の瞳を真っ直ぐ見つめていた。
 見える、聞こえる。どうしてだかはわからない。けれども、俺はそれが嬉しかった。
 俺は死んだけれど、まだ、ここにいた。
「っ月蔭うしろ!!!」
 バキッ!!
「グッウ……」

 唐突だった。不意に現れたその人は月蔭を棒で殴ろうと振りかぶっていた。俺の声に、月蔭は咄嗟に身をよじって避ける。背中を棒で強く叩かれたらしいが、急所は避けたらしい。
 それは兄だった。兄は泣きながら俺の名を呼び、また棒を振り上げる。
 その兄に、月蔭は決死の覚悟で体当たりした。階段に頭を打った兄は意識を失った。
 月蔭が救急と警察を呼んで、月蔭もズルズルと床に崩れ落ちる。



 あの日、兄は叔父から強姦されていた。初回ではなく、それまでに複数回繰り返されていた。
 それを目撃してしまった俺を、叔父は追いかけた。逃げ損ねた俺は階段から転げ落ちる。呆気ない死だった。

「なんで見えなくなったんだろうな」
「なんでだろうな」
 学校の廊下、窓から空を眺めた月蔭が言った。
 兄に殴られた月蔭は、骨に異常はないものの背中の筋肉を痛めていた。薬と絶対安静を告げられたのみで、入院する事もなかった。
 月蔭が診察を受けている間、警察が訪れた。
 警察の話は、にわかには信じがたいものだった。

 俺の兄、飛匙照糸(テイト)は心身喪失状態にあった。兄自身、なにをしていたのか果たして定かではない。
 その原因は兄の部屋にあった。
 叔父は兄の部屋で死んでいた。兄の犯行により、包丁で複数回刺されていたという。
 今は病院に入院していた。

 俺も叔父も死んだ。残された兄は、どうやって生きていくのだろう。

「まあさ、お前が見えたおかげで殺されずに済んだし」
 月蔭は相変わらずゲラゲラと笑う。
「助かったよ、サンキューな」
 月蔭が俺の頭を撫でた。
 俺はなんとなく、身体がふよふよと浮かぶような気分だった。

 だってほら、俺、幽霊だし。


終わり