バク

 バクには好きな人がいた。それは大(ヒロ)という人間だった。
 バクは毎晩、大(ひろ)に夢の中に現れては、大と遊んだ。
 バクは悪い夢を食べる生き物だ。
 でも大が悪い夢を見ることは殆どなかった。きっと幸せな生活を送っているのだろう。
 だから、大の夢はいつも楽しかった。

 バクは腹が空いたので、大ではない人間の夢に入った。
 大人の見る夢は大抵悪夢だ。バクはペロリと悪夢を食べた。
 ちっともおいしくない。
 大の夢は(食べないから)腹は膨れなかったけど、いつも心を満腹にさせてくれた。
 もし大の夢が悪夢になったら、すぐに食べてきれいにしてあげよう。
 大に悪夢は似合わないから。

 その日もバクは、いつものように大(ヒロ)の夢に入った。
 バクはいつも、目を閉じて夢に入る。大(ヒロ)の夢の中はいつ来ても、明るくて眩しくて、色とりどりできれいだった。
 時には美しいオーロラが、時には大きな虹がバクを出迎えた。
 だからバクはドキドキしながら、目をゆっくり開ける。
「……っ!」
 目を開けた先の光景に、バクは口を押さえた。
 世界は真っ暗だ。いつもの明るさなんてカケラもない。深淵とはこういうものだ、と思うほどの黒。
 自分の指先さえ見失ってしまう。足元はずぶりと沈んでいく。
 果てない闇が地平線の先まで続いていた。
 あまりのショックに、バクはただ混乱した。狼狽えるしかできなかった。
 おとついは悪夢の気配なんてカケラもなかった。もし昨日から悪夢が生まれていたのだとしても、広がるのがあまりにも早すぎる。
 人の夢は、人の心だ。ならば大の心も、今のここのように真っ暗なのだろうか。
 バクはぬかるみに足を取られながら歩き始める。一歩一歩がひどく重い。
 夢の中の大を探そう。きっと大は、この暗い夢の中で不安になっている。
 だから、大(ヒロ)を見つけよう。大のいる所からボクが悪夢を食べていこう。
 そしたらきれいな夢が生まれていくはずだ。
 きれいな夢でここはきっと明るくなる。
 そしたら大の心も、明るくなっていく。
 そうに違いない。
 バクはそう考えて、果てしない暗闇を歩き出した。
「ヒロ!!」
 大はぬかるんだ地面の中に、殆ど浸かり込んでいた。
 辛うじて頭のてっぺんが見えるくらいで、間一髪のところだった。
 バクはぬかるみの中に腕を突っ込んだ。
 大の脇に両腕を通し、引っ張り上げようとする。
 バクの足はぬかるみに沈みそうだった。
 力の抜けた大は重くて、腕から滑り落ちそうだ。
「ヒロ……ヒロッ……」
 バクは泣きながら、なんとか大を引き上げた。
 投げ出して座ったバクの足の間に、大はすっぽりおさまる。
 目は虚ろに、黒い空を映すだけだった。
「ヒロ、ごめんね……」
 バクは、大の頭を撫でながら言った。
「ヒロの夢は、全部食べられてしまったんだね、他のバクに」
 夢の中の大の様子を見て、バクは気付いた。
 これは悪夢なのではなく、夢がない、ということに。


 バクの好物は夢だ。
 それも、悪夢ではない、楽しい夢の方がずっとおいしくて好きだった。
 けれど、楽しい夢は食べ過ぎるとよくなかった。
 夢と心は同じ。
 心が夢を作り、夢が心になる。
 その夢がなくなれば、心に影響を及ぼさないわけがない。
 そしてやがて、夢を見る人間の心が、壊れてしまうのだ。
 だから、「悪夢しか食べない」というのが、バク達の暗黙の決まりだった。

 大の夢はきれいに澄みきっていた。元々、大の心が清かったせいもある。
 その上バクが夢の中に毎晩訪れたことで、夢をさらに浄化させていた。
 そんな夢を食べずに取っておいたから、夢の密度が増していたのだろう。

昨日の夜、きっとそれは起きた。
 一人の夢に入れるバクは一匹だけ。
 大の夢を狙っていた他の誰かが、バクのいなくなった昨日の夜、大の夢に足を踏み入れた。
 きっと初めは、一口だけ、ほんの少しだけ食べるつもりだったのだろう。
 けれどあまりのおいしさに、すべてを食べ尽くしてしまったのだ。
 夢がないのは、心がないのも同然だ。
 大の夢は今、カケラも残っていない。大の心も、なくなってしまった。
 暗いのは悪夢のせいではなく、虚無の空間と化してしまったからだ。
「ごめんね、ヒロ……ごめんね……」
 ぽたり、ぽたり……。
 大(ヒロ)の額にしずくが落ちる。
 バクの涙だ。

「ヒロ、ボクの心をあげる
 だから起きて
 君は、目覚めて」

 バクはそう言って、大(ヒロ)の唇に自分の唇を重ねた。
 バクの心が、口移しで大(ヒロ)の中に入っていく。
 すると大の周りが光り始めた。
 大の体の触れるところから、大地が、空気が、世界が色づく。
 もう、大丈夫。
 バクは、眠れる大に微笑んだ。
 バクは、大の中にいた。心を大に分けたから、弱っていた。
 人は心を作れるけれど、バクは作れない。バクの心は戻らない。
 もう他の夢に行くことはおろか、夢の中で大の前に姿を現すこともできない。
 それほどまでに弱っていた。
 それでもバクは、大の中にいた。
 大は心が無くなって以来、夢の中に悪夢が生まれやすくなっていた。
 大の中に生まれてしまう悪夢を、バクは食べ続ける。
 悪夢を食べるたびに、バクは少しずつ黒く染まっていった。
 それでも、バクがいたから他のバクは入ってこれなかったし、大の中に生まれる悪夢はすぐに消えていく。

 大はバクの事を忘れてしまった。
 バクを忘れたせいで、心にぽっかりと穴が空いている気分だった。
 けれどそれと同時に、なにか温かいものを感じた。
 大は時おり、その温もりで涙が止まらなくなる。
 大は、夢の中の誰かに、そっと呟いた。
「またいつか、夢の中で遊ぼうね」
おわり