夢喰いバク

 ひらひらと手の中に落ちてきたのは、たったそれだけが書かれた、奇妙なチラシだった。
「……夢喰い屋? ……バ、バク?」

 まるでそのチラシが招待状だったかのように、通り慣れていた筈の商店街に、その日生まれて初めて「夢喰い屋」なるものを見つけた。
「こんなところにこんな店が……」
 見た目こそ普通のカフェのようだが、夢喰い屋だなんて、奇妙な看板を掲げている。それなのに行き交う人々は誰も気づいていない様子で通りすぎてしまう。
 きっと、チラシを手にする前の自分もそうだったのだろう、と気づく。
「あんた」
「えっ」
 唐突に、後ろからぬぼっとした声がした。驚き振り替えると、身長はそう低くない自分より二十センチは大きい男が立っていた。
 どうりで急に暗くなったわけだ。これは、彼の陰だ。
「客か?」

「あ? ええと……」
 ぬぼっとした男がオレに聞いた。
 男はフランスパンやオレンジの入った大きな紙袋を抱えている。まるで外国映画の中の、通行人Aのようだった。だが、見た目がどこかどんくさくて、洒落た紙袋も似合ってはいなかった。
「……あ、夢喰い屋の、店主さん?」
 オレははた、と気づき、チラシを振った。
「ああ。店主の莫(バク)だ。その紙を持ってるってことは、あんた客だろ?」
「え? うあ」
 莫(バク)は片手で器用に店の扉を開け、オレの腕を掴んだ。そしてそのまま、中に引っ張り込まれる。
「……このチラシ、そこで拾っただけなんですけど」
「そいつは来るべき者の手に渡るようになっている。あんたは来るべき者だったのさ」
 前髪で目は見えなかったが、口元だけ、ニカっと笑いかけていた。なんとも胡散臭いのに、そんなものか、とオレは納得し始めていた。
「さあ、そこにかけて。あんたは目をつぶるだけでいい」
 莫(バク)に促されるまま、オレはふかふかのリクライニングソファに座らされる。
「深い眠りについたら、夢を喰ってやろう」
 沈みこむほど柔らかく、それでいてしっかりと体を包み込む。あんまりにも心地よくて、オレはまぶたがみるみる重たくなるのを感じた。
「ちょっと……まって、くれ。夢を喰うって……?」
 喋るのもおっくうで、ぬるま湯にでも沈み込んでいくようだ。
「あんたの望まない夢を、俺がきれいに食べ尽くしてやる。あんたは何も考えなくていい」
 ゆりかごに揺られるように、莫の声が響いて脳を優しく揺さぶる。
「流れに、ただ身を任せるんだ」
 目を覆うように、莫(バク)の手がゆっくり被さる。莫(バク)の手はどこかひんやりとしていて気持ちよかった。意識はオレの手から滑り落ちた。

 ぼんやりとした夢の中にいた。
 夢を見るなんて久しぶりだ。いつも悪夢にうなされ、はた、と目が覚めてしまう。
 夢の中にいることを自覚するなんて、おかしなことだけど。でも夢の中だった。
 オレと、少し離れたところに莫(バク)がいる。オレも莫も、不規則に回って宙を漂う。
 世界はどことなくうす暗い。
 莫は何もしていない。オレも何もしない。ふよふよと漂い、ぼーっと世界を眺めた。
 そういう自分がいるのを、後ろから見つめている、そんな感覚だった。
「……莫さん」
「どうかしたか」
 オレは莫に話しかけた。莫は逆さまになっていた。
 でも地面がないから、もしかしたらオレが逆さまなのかもしれない。
「オレの夢を食べるんだろ? もう食べたのか?」
「いや、まだ喰べていない」
 莫は器用に足を組み、腕を組んで考えている様子で言った。
「それじゃあ今から食べるのか?」
「いや、それを考えているところだ。」
「?」
 莫はゆっくりと回転し始めた。きっと、莫の頭の中も今そういう感じなのだろう。
 それとも、莫の言葉を理解しようとするオレの頭の中が、そういう感じなのだろうか。
「どういうことだ? オレの悪夢を食ってくれるんだろ?」
「そのつもりだったが、あんたの悪夢は霧散していてな」
「ムサン?」
 オレが聞き返すと、莫はその場で手をひょいっと動かした。
 莫の手の中には黒いモヤが小さな塊になって、漂っている。
「普通の悪夢はこうして、ある程度集まって塊になってるもんなんだ。でもあんたの悪夢は違う。かなり薄く、しかも世界全体を覆う程の量が、ほとんど同化した形で存在している。だからここはこんなに、薄暗い」
 莫は手の中のモヤを、ふっと息を吹き掛け飛ばしてしまった。
「今の食べちゃえばよかったんじゃないのか?」
「まあ、喰ってもよかったんだけどな」
 莫は言いながら、オレの方にすいーっと泳ぐように近付いた。さすがというべきか、夢の中の動きには慣れているらしい。
 オレもまねしてみたけれど、不器用にその場で回転してしまうだけだった。
「夢ってのは心なんだ。悪夢は夢の出した廃棄物みたいなもんでな。だから心に同化しちまうこともある。さっきの悪夢には、あんたの心が混ざっていた。悪夢を喰い尽くすとなると、あんたの心も一緒に喰い尽くしかねない」
 トン。逆さまの莫が、オレの胸を指で軽く突いた。バクの触れた所が、なんだか熱くなっていく。まるで、そこに心があるとでも言うようだった。
「……それじゃダメなのか?心なんて、無くなったっていいだろ」
「心がないってのは、何もないってことだ。人の心には手を出すな。これがバクの決まりで、教えだ。あんたの悪夢は喰ってやるが、あんたの心を背負っていくつもりはない」
 オレの言葉は莫を怒らせてしまったらしい。莫の声に、少しのトゲを感じた。
「あんたは悪夢の原因を、もうほとんど覚えていない筈だ。でもモヤが出てるから、良くは眠れないんだろう。中から手出しはできんが、眠る前に温かいミルクでも飲めば、少しはましになるさ」
 莫はまた、オレの目を手で覆った。
「さあ、あんたはもう少し寝ていろ」
「夢の中でまた眠るなんて、おかしな話だ」
「夢なんて、そんなもんだ」



「本当はあんたのトラウマ、少しだけ見えた。でも俺が手出ししたら、あんた壊れそうだ……。忘れているなら、思い出さない方がいい……そうだろ?」
 莫は寝ているオレに何か言っていた。でも、オレは莫のおかげでいつもよりか、幾分穏やかな気持ちで眠りについた。
 だから莫の言葉なんか気にならない程、安らかに眠ったんだ。

 目が覚めると、心地よいソファの上で寝ていた。
 窓から差し込む夕日は、濃い橙色で部屋の中を染め上げる。
 あれは夢だったのか。夢の内容ははっきりと覚えていた。でも、すぐに少しずつ、消えていった。
「起きたか」
 窓とは反対側から声がして、そっちを見ると莫がいた。
 薄暗い中で、ソファに座り本を読んでいる。前髪は長いし、絶対目が悪くなるな。
「そこの水を飲んでおけ。人は睡眠中も汗をかくそうだ」
「……どうも」
 水は室温程度にぬるかったが、喉を潤すには十分だった。
「悪夢には原因がある。疲れ、ストレス、病気……。あんたの悪夢は長いことわだかまっていたものが、ようやく忘れられてきた、って感じだな。このまま放っておけば、その内、きれいさっぱり忘れられる」
「原因……たしかに、全然思い付かないな」
 オレが言うと、莫はまた口元だけニカっと笑った。
「それからあんたは、悪夢を見るかもしれない、という不安を持っている。その不安がストレスの要因になるんだ。でもさっきは平気だったろう? 悪夢を喰ってやることはできないが、悪夢を見ないように眠ることなら、してやれる」
「……話に来るだけでもいいのか?」
「ああ」
「……じゃあ、また来ます」
「お待ちしています」

 ああ、そう言えば結局、自分の名前を名乗り忘れたな。と、いつも店を出てから気づく。
 夢喰い屋を訪れてもう5回目になる。
 オレが店の前に来ると必ず、
「ああ、いらっしゃい」
 扉は勝手に開き、莫が待ち構えていましたとでも言わんタイミングで出迎える。
そしてすぐさま、
「とりあえず、寝ろ」
と、心地よいソファに座らされてしまうから、オレは喋る間もなく眠りについてしまう。
 莫に「あんた」と呼ばれる度に、少しずつ胸が苦しくなるのを早くなんとかしたかった。
 きっと、名前を呼んでもらえたら何か変わるんじゃないだろうか。そう思ってはいるのに、眠りから覚めると、そんなことはどこかへすっぽりと飛んでいってしまう。
 目覚めたオレに、莫(バク)は水を勧める。そして、夢とは程遠い、オレの事を色々聞いてきた。
 今日学校で何があったかとか、オレの好きなもの、嫌いなもの、昨日食べたもの、明日行くところ。オレの名前以外の、色々。
 聞かれることは不愉快ではなかった。むしろ、他愛もないことでも話を聞いて、あれこれ言い合うのが楽しかった。
 でも、オレが莫(バク)の事を聞いても、あまりよくわからない事ばかり答えてくる。だから、なんだかはぐらかされているようで少しだけ悔しかった。
「オレの夢は、今どんな感じなんだ?」
 オレは莫(バク)に訊ねる。夢の中での対話も、夢の話も、最初の一回目以来していなかった。
 それに、あの薄暗い世界にはもう行けなかったし、どんな夢を見たのかも覚えていなかった。よくわからないが、莫(バク)の力が関係してることは間違いないだろう。
「だいぶよくなってきているな。ただ、悪夢が消えているというよりは、同化が解けてひとつにまとまりだしてるようだ。もう少ししたら、俺がまとめて食べてやる」
「ふーん……原因とかは全然、思い出せないんだけどな」
「まあ、思い出したくない事は誰にでもある。思い出せないものは、思い出さなくていいことだ」
 夢の話をする莫は優しかった。ことさら、オレの悪夢の原因については慎重で、どちらかと言えば思い出させる気はないようだった。
 莫(バク)はきっと、何か知ってるんじゃないか?オレは莫(バク)を、少しだけ疑うようになっていた。
「……そういえば、オレ以外の客を見たことがないんだけど」
 オレは閑散とした部屋を眺めて言った。
 確か莫は、来るべき者が来る場所、と言っていたか。それにしても、もう五度目の来店だというのに、客が一人もいないのは店としてどうなんだろうか。
「俺の店はな、一人が通ってる間は、その客の相手しかしないことにしているんだ」
「はぁー? それ商売って言えんのかよ?」
「バクって生き物は、夢さえあれば喰っていけるんだよ。こんな店は、殆ど娯楽に過ぎん」
「お前……」
 この不況の世の中も、きっと莫には関係ないのだろう。莫が少し、うらやましく思えた。
「……じゃあオレが来る前は、他の客の相手をしてたのか?」
「なんだ、前の客に嫉妬でもしてるのか?」
「なっ……んなわけないだろっ! いつ見ても客が一人もいないことを心配しただけじゃないか! も、もういい、オレ帰る!」
「お気をつけて」
 カラン――。嫉妬なんて、するわけないじゃないか!

 その日は気分が高ぶっていたのかもしれない。それとも、悪夢がまとまりつつあるって莫(バク)が言っていたし。莫と出会ってから、オレは確実に、戻りつつあった。

「■■■■■■■■■■」

 はっ、として目覚めた時、オレは泣いていた。辺りはまだ暗く、夜中に違いなかった。
 それでもオレは、くらくらとする頭を揺さぶり起こして、莫のところへ向かった。
 早くあの悪夢を、心ごと、食いつぶして欲しかったかた。
「開けて、莫さん! お願いだ、開けてくれ!」
 ばんばん。ガラスを叩く音が辺りに響く。それなのに、商店街の人間は誰一人として目覚めはしなかった。ここだけ次元が切り取られたみたいだった。
「ん、どうした、こんな夜更けに」
 扉を開けた莫に、オレは飛びつく。勢いに任せたから、莫が床に尻もちをついた。
「どうした?」
 莫(バク)の手が頭を撫でる。
 本当は人の手に触れるのも怖かったけど、莫(バク)の手は少し冷たくて、だから心地よかった。
「全部……思い出した」
 一瞬、莫の手がオレの言葉に反応して止まる。やっぱり、莫(バク)は知っていたんだ。
「……そうか、夢を見たんだな」
 俺が全部食べてあげるから。
 莫はオレに、囁くみたいに言った。でも、オレは、それだけが望みじゃなかった。
「お願いだ」
 オレは頭を撫でる莫の手を掴む。そして、いつか教えてくれた、心のある場所に手をあてる。
「あんなのもう思い出したくない。あんなオレは存在したくない。お願いだ」
 舌がもつれ、声が震えるのを必死で言葉を絞り出す。
「オレの心も、全部、食べてくれ」
 ぎゅっ。胸にあてた莫の手を、両手で握りしめた。
「それはできない。」
 莫の声が、現実を告げた。
 苛立ちで、オレの手に力が入る。それでも莫は、声色一つ変えずに続ける。
「言っただろ。あんたの心を喰って、あんたの心を背負って……。俺ひとりで生きるなんて、そんなのごめんだ」
 莫の左手が背中に回って、オレを抱きしめる。
 莫の顔が左肩のほうにあって、そこに何かがぽたりと落ちた。
 莫は、泣いてるのか?
「俺は、心を全て喰われた人間を知っている。あんたをそんな風にはしたくない」
 わかってくれ。
 莫は小さな声で言った。
「思い出してしまった悪夢は、全部俺が食べる。でもあんたの心は、あんたの中にいないと意味がないんだ」
 莫は、まるで懇願するように言った。悪夢に怯えるオレのように。
 オレに何かがあったように、莫にも、きっと何かあったのだろう。
 じゃあいったい、莫の悪夢は誰が食べてあげるんだろう?
「……二人で見る夢は、きっと悪くないんだろうな」
 オレは、心が熱くなるのを感じた。
 莫の教えてくれた、オレの心は、やっぱりオレの中にあった方がいいのかもしれない。


 この日オレが、今までで一番心安らかに眠れた。それは悪夢を食べてもらったからではなく、きっと隣に莫がいてくれたからなのだろう。
 隣で眠る莫と、同じ夢を見ている。
おわり