ヒト

 俺には幼馴染みがいる。年が一つ上。隣の家にいて、窓越しに会話もできる。
 大切で、大事な、幼馴染みが。
 幼馴染みにも大切な人がいて、その大切な人はある日亡くなってしまった。
 幼馴染みはそれから、引きこもり、泣き続けた。
 いつも俺のために開いていた窓もしっかり閉められ、小さな泣き声は朝も夜もなくずっと続いた。
 一週間が経った頃、ようやく窓が開けられる。
 幼馴染みの目は腫れていて、疲れた顔で、おはよう、と笑った。
 それからだった。幼馴染みは以前よりも、幼馴染みの大切な人が亡くなる以前よりももっと、笑うようになった。
 幼馴染みの周りの人はみんな「無理しなくてもいいんだよ」と言ったけど、幼馴染みの笑顔は無理をして作っている様子ではなかった。
 それでも、少し、何かが違う、そう思ったのは俺だけだった。
 幼馴染みはよく笑うようになった。けれど、まるで別人のように見えた。顔だけそっくりな、双子のような、別の誰か。
 そう思うのは俺だけしかいなくて、そっくりな誰かは幼馴染みとして周りから受け入れられてしまった。お前は誰なんだ、とは、聞けなかった。
 幼馴染みの顔をした誰かは、そんな俺の疑念に気付いたらしい。
「おはよう、慧(ケイ)くん」
「おはよう」
 オレたちの朝は、窓越しの挨拶から始まる。
 オレと、幼馴染の朔(サク)が生まれて出会ってから、ずっと続けられてきたことだった。
「慧くんは優しいね」
 朔の顔をした誰かは、唐突に言った。
 いつもと同じ笑顔なのに、オレは何故だか心が締め付けられて、泣きたくなった。
「ボクが朔じゃないって思ってる。でも口には出さなかった」
「!」
「朔のことが大切なんだね」
 朔の顔で、朔のことを、悲しそうに笑っていた。何もかもが矛盾している。
「朔――ごはんよ」
「今行くー!」
 下の階から、朔の母親が朔を呼んだ。朔の顔の誰かは、朔らしい振る舞いでそれに答える。
「朔はここにいる。でもまだ泣いてるから、ボクが代わりに笑うんだ」
 そう言って笑った。ああ、朔は、そんな風には、笑わないんだ。
「それじゃあまたね、慧くん」
 朔の顔の誰かは、そういって部屋から出ていった。
 オレはあいつを、朔とは呼べなかった。
「ボクの事、朔って呼べないなら、漠(バク)って呼んで。それがボクの名前だから」
「……漠」
 それは妙にしっくりくる名前だった。
「朔(サク)はまだ、泣いているのか」
 オレは言いながら、うつむく。姿は朔(サク)だから、朔(サク)の顔を見れなかった。
「……そうだね」
 漠は優しく答える。きっと、いつもみたく笑いながら。
「慧くんは、優し……」
 また、漠はオレにそういう。
「そんなんじゃない」
 オレは漠の言葉を遮って止めた。
「そんなんじゃないんだ……ごめん」
 オレはベッドに倒れこみ、枕に顔をうめる。
 優しいとか、そんなんじゃないんだ。
 朔がずっと泣いていればいい。オレは、いつの間にかそんな風に思っていた。
 笑っているのが漠で救われたとか、そのままずっと朔は泣き続ければいいとか、そんなことしか思えない、自分が嫌になる。
「おはよう慧くん」
「……おはよう」
 漠は相変わらず笑っていた。オレはぎこちなく笑い返した。
「漠って何者なんだ? 二重人格の一種か?」
「ううん、ボクは、夢喰いなんだ。知ってるかな、夢喰い」
「……夢喰いのバク、ってことか?」
「そう。ボクは、朔の泣き声につられて、朔(サク)の夢に入った」
「朔の……夢に……」
「朔の夢はとてもキレイだった。涙の雨が降り注ぐ中に、朔がひとりで泣いているんだ。
 朔の夢は光があふれているから、涙の雨が光を反射して、きらきら輝いているんだ。
 ボクは思った。朔が笑ったら、どんなにキレイな虹になるんだろう、って。
 だから、朔が笑えるようになるまで、ボクが代わりに笑うんだ」
 漠は朔の夢を嬉しそうに語った。
 あまりに嬉しそうに語るから、きっと凄くキレイなんだろうな、と思う。
「……朔が笑ったら、漠はいなくなるのか?」
「そうだね、虹が見たいだけだから」
「ずいぶんと暇人なんだな」
「ロマンチックでしょ?」
 本当は朔に会いたかった。でも朔は、心の中で泣いてるから、オレの前には漠がいるだけだ。
 漠(バク)はいつでも笑っている。本当はそれがすごくありがたかった。
 朔(サク)に泣いていてほしいと願いながら、朔の泣き顔は見たくない。
 オレは矛盾している。泣きながら笑っている、朔と漠よりも。

「朔……会いたいよ……」
 オレの声は、朔に届いているのかな。
 ふわっ。
 窓にうなだれたオレの頭に、何かが触れようとして、触れることはなかった。
 顔を上げると、漠がいた。漠は今にも泣きそうな顔で笑った。
「……漠が嫌なわけじゃないんだ。でも……」
「朔は」
 漠がオレの言葉を遮る。あまり、聞きたくなかった。
「朔は慧くんがそこにいる限り、泣き続けるんだ」
 漠は、涙の雨がキレイだと言った。
 漠の目から流れ落ちた雫は、確かにキレイだった。

 全部知っていたけど、忘れていた。忘れていた振りをしていた、朔の大切な人は、オレだった。
 朔が泣き続けることは、オレの存在の証明だった。オレはもう、朔の心にしか存在しない。
 だから朔が泣くのを止めたら、それは、朔の中からオレが消えた事になる。
 でもそうやって、朔を苦しめ続けて、いいわけがないのに。
「慧くん、ボクも一緒に行くよ」
 漠が、オレにぎりぎり触れないところで、オレを撫でるしぐさをした。
 触れてはいないのに、ぬくもりを感じた。
「でも漠は、虹を見るんだろ?」
「それは大丈夫。ボク達が離れてても、きっと見えるくらい大きな虹がかかるから」
 それは少し、寂しいな。思った事が漠に伝わったのか、くすっと笑われる。
「だからボクがお供をしてあげるんじゃないか。一人は、さびしいから」
 そうだな。
 オレの思いは、もう言葉にしなくても漠にすべて届いていた。
「それに、知ってた? 泣いていたのは、朔だけじゃないんだよ」
 初めて漠が、オレに触れる。見ると、もう朔の姿をしていなかった。
 これが、本当の漠の姿なのか。
 漠がオレの手を引っ張る。寂しくはない。

 オレにも虹が、見えるだろうか。
 目覚めた朔は、一筋の涙を流した。
 夢の中の虹の美しさと、少しの寂しさに。
 もう窓の向こうには、誰もいない。
 けれど雨は降らないだろう。

おわり