入くんは、僕を忘れてしまった。
僕は今でも時折、入くんを思い出した。目で、耳で、舌で、指で、鼻で感じた全てを、何度も何度も思い出した。
入くんのいなくなった景色は味気なかった。僕は入くんのいた思い出に縋ったけれど、彼が転校した一年後に仕事を辞め、遠い地に引っ越した。
そこで塾講師として、記憶の中の入くんと、毎日を過ごしていた。
十年の月日はあっという間だった。
君は今どこで、どんな成長を遂げただろうか。僕の事を忘れて、強くたくましく、かっこいい大人になっているのならそれはそれで喜ばしい事だった。
大人になって、女性と結婚して、子供を作って。そんな幸せな日々を送っていたら、嬉しい。僕は彼の幸せを願っている。
あの十日間は、僕が僕を満たす為の十日間だった。入くんの人生のうち、十日間を僕だけのものにした。そんな日々だった。
最後にはどんな報復が待っていても、僕はそれを受け入れるつもりだった。法による裁きでも、殺人という復讐でも。僕の奪い取った十日間の対価には安いくらいだと思っていた。
けれども待っていたのは、何もない日々だった。
入くん、ある意味でそれは、僕にとって一番有効な復讐だったよ。
「せんせーさよならー」
「はいさようなら」
「ばいばーい」
「気をつけて帰るんだよー」
夕暮れに染まった街の中、僕は塾の生徒たちを見送った。小学生から中学生までの彼らは、人懐っこく、可愛い生徒たちだった。
「こんにちは、先生。今でも俺を、愛してる?」
「え?」
ゴスッという重い音と鈍い痛みに、僕は気を失った。
耳に残る声の心地よさに、まるで眠るように。
終わり