世界は、それまで以前となんら変わらない様相を呈した。僕はそれに腹を立てていたのかもしれない。
入くんが警察に保護されて翌日、僕は保健室で仕事をしていた。
おかしな話だった。
入くんは僕を告発しなかったのだろうか?警察の捜査は?入くんの現状は?
知りたいことは山ほどあったのに、表面に出ている僕は、「誘拐された生徒の蒼山くんを心配する養護教諭」でしかなかった。頭の奥底では今でも入くんのあの悩ましい姿を思い出し、舌の感触を楽しんでいるというのに。
ゴールデンウイーク明けの週の始まりということで朝礼もあったが、入くんの話が直接なされることもなかった。かんこう令がしかれたのだろう。校長が重々しい口調で言ったのは、
「忌まわしい事件がありました。被害者の生徒を慮り、いたわり、支えてください。この学校の生徒になら出来ることだと、私は信じています」
という事だけだった。
誘拐事件で学内はざわついていたが、誰も真実に差し迫るものはなかった。陰謀論や狂言が噂されたが、そもそも彼らは、入くんという人物すらよく知りもしないのだ。
事件の顛末を、想像する足がかりすらない彼らの話はどれもありきたりだった。
「尸先生」
慌てた様子の女子生徒が、保健室の扉を開き、僕を呼んだ。その女子生徒は入くんの在席するクラスの生徒だった。
「どうしたの?」
「蒼山くんが……」
「え?」
驚く僕の腕を引いて、女子生徒は教室へ急いだ。道すがら、入くんが登校してきたこと、教室へ入るなり震えて蹲った事を話した。
担任の先生に頼まれ、女子生徒は僕を呼びに来たと言う。
僕は緊張でドキドキしていた。
もう二度と会うことは許されないと思っていたから、歓喜のあまり。
もしくは僕たちの過ごした10日間を暴露されるのではという危惧か。
きっと歓喜の方がほど近い。僕は入くんに会えると知って、今にも勃起しそうなほど興奮していた。それを隠そうと必死になっているのが、混乱する養護教諭らしさを出していた。
「はい……蒼山くん、」
教室に足を踏み入れて、名前を呼びそうになって慌てて呼び直した。そんなことよりも僕は、ドキドキと心臓が高鳴るのを感じた。
教室の後ろ側で蹲る頭と背中しか見えなかったが、それはたしかに入くんだった。心配そうにする担任に促されて、僕は入くんに駆け寄る。
もう一度触れてもいいのだろうか。
僕は、それを許されるのだろうか。
しゃがんで手を伸ばす僕に、入くんはたしかに笑って、囁いた。
「ばいばい先生、好きだった」
僕に縋るように身体を預けて、入くんは脱力した。
しょろろ……。
静まり返った教室に、音が響く。足元で水溜りがみるみる広がっていく。鼻につく臭い。女子生徒が小さく悲鳴を上げる。
入くんはみんなの前で、おもらしをした。
それから数日、学校を休んだ入くんはそのまま転校していった。警察の捜査は、困難を極めていた。なによりの情報となる被害者が捜査協力を拒否したからだ。
思い出したくない。
入くんはそれだけしか言わなかったそうだ。
入くんの選んだ選択肢は、僕にとって一番残酷なものだった。
終わり