リップクリーム

「高科(タカシナ)」
 講座は教室単位で行われており、塾生は講座に合わせて教室を移動したり、空き時間は自習スペースに移動していた。
 そんな、移動時間で少しざわつく廊下に、高科の後ろ姿を見つける。
 普段なら見つけても挨拶程度で過度に接触することはなかった。けれど、歩く様子はぎこちなく、どこかおかしい。
「大丈夫か?どこか具合悪いのか?」
 立ち止まり、振り返った高科の顔面は蒼白していた。見るからに体調が悪そうなのに、口をパクパクさせてうまく言えないようだった。
 俺は高科に近い方の耳を寄せて、高科にだけ聞こえるように言った。
「口に出して」
 高科は一瞬周りを見渡してから、俺の耳に口を近付けた。緊張と興奮が入り混じった高科の、鼻息と吐息がくすぐったい。
「……ローターが、痛くて」
 ごくり、と生唾を飲む音さえ聞こえた気がした。
 そんなことよりも、だ。
 その告白に、俺は体勢を戻して高科を見つめる。ローターが痛い、とは。ワイシャツにスラックスの出で立ちの高科で、特に目立った膨らみもない。ローターがあのローターなら、胸や股間に着けているわけではないようだ。
 ならば、大方この哀れで愚かな高科は、アナルにローターを挿入したはいいものの、ローションが乾いて滑りがなくなり、異物に痛みすら感じているといった事だろう。
「……馬鹿だなあ」
 思わず口にしてしまった言葉に、俯いていた高科は目を潤ませて、しゅんとした。
 俺は高科の頭をぽんぽんと触り、ポケットからリップクリームを取り出す。
「これ、メントール入ってないから沁みたりはしないと思う。これ使って出してきな」
 高科はリップクリームと俺とを交互に見た。
 チューブ型のリップクリームだから、指につけるなり穴に挿すなりして塗ってやれば、ローターを取り出すことくらい出来るだろう。少し甘い匂いがきついが、使いやすくて愛用していた。
 終わったあとは、高科の下の穴が甘い匂いになるんだと思うとなんだかいやらしい。
「使い切っちゃっていいから。次講座なかったよな。ゆっくりやってみて、どうしてもダメなら呼んで」
「……っあっ……りがと、うございます……」
「どういたしまして」
 下手くそなお礼の言葉に笑みを湛えつ、トイレに向かう高科を見送る。
 そうだと思って見ればたしかに、尻を気遣ってぎこちなく歩く姿に俺は苦笑した。
 今日の最後の時間は面談で、それを見越して色気を出して、ローターなんて挿れて来たんだろう。
 勉強頑張るって言ったのに、なにを頑張っているのやら。
 あとできっちり叱ってやろう。きっと性的なお仕置きを望んでいるだろうから、そういうのは一切なしで。今の高科には、それが一番のお仕置きに違いない。

終わり

「先生、あの、これ、ありがとうございました」
 翌日、高科が受付作業をしていた俺の元にやってくる。新品の、昨日渡したものと同種のリップクリームを持って来た。
「ああ、いいのに」
 基本的に差し入れの類は貰わないことになっていたから断る。
「高科使いなよ。そしたら俺と、お揃いになる」
 しゅんとした高科にそう言うと、高科の顔が真っ赤に染まった。おかしなことを言っただろうか?お揃いがそんなに嬉しいだとか?
 高科は相変わらず口をはくはくさせていたので、指で合図し、耳打ちさせる。
「……れ、おれの分は、もうあるんで、す……」
 高科はそう言うと、ポケットからリップクリームを取り出す。それは紛れもなく昨日渡した使いかけのリップクリームだった。
 そういえば、つやつやに潤った高科の口元からはほのかに甘い匂いがした。
「……わかったよ。じゃあ、これでお揃いだ」
 お揃いだとか、間接キスだとか、そう言うことを思って、こっそりと俺のリップクリームを取っておいたのだろう。
 高科は俺が思うより、ずっと変態で、抜け目のない奴かもしれない。

終わり