プロローグ

 ワールド:ローライン。この世界には二つの大陸があった。地上の九割を占める大陸の中央近くにトワ=オーデン王国は存在する。
 めでたい夜だった。トワ国王家に新しい二つの命が誕生した。しかし、国民はそのことを知らない。王家と僅かな側近を除いて、誕生の報せがされたのは一つの命だけだったからだ。
 一つの命は取り上げられてすぐ、城の地下深くに幽閉された。言葉も通じないその赤児に、一度だけ抱くことを許された母親が囁く。
「貴方はなにも悪くない。これは貴方を守る為なのだから。愛しています。いつまでも、いつまでも」
 母親、女王は赤児の額にキスをした。古より、魔法の力は唇に宿ると言い伝えられている。健やかに育つ祈りのキスだった。

 それから八年の月日が経った。空に輝く二つの月がともに姿を消す、真新月の夜。厚い雲が世界を覆い、星すら地上を照らさない、どこか不気味な日だった。
 その厚い雲の遥か上空に、二つの巨大な影があった。大きな翼が力強く羽ばたき、長い尾が鞭のようにしなる。身体にはどの鉱石よりも硬い鱗が巨万と皮膚を覆い隠した。爬虫類のような瞳が見合わせ、大きく飛翔すると、二つの影は螺旋を描いて急降下する。
 ゴオゴオと風を押しのけながら、二つの影は一直線に落ちていく。目標はただ一つ、トワ王国王家の住まう城だった。
 しかし、王国の誰もがその接近に気付いてはいなかった。長い間戦争もなく平和に過ごしてきた国民も飾りだけの兵士も、肉眼では見えないほど遥か上空からの侵入者など想像もしなかっただろう。
 二つの巨大な影は城の上空数百メートルでぱたりと姿を消した。王国中を突風が吹き荒れたが、おかしな夜だと不思議に思うだけでその原因に辿り着く由も無い。

 トワ王国唯一の子息、リヒト王子は不意に目を覚ました。明日は生誕八年の祝いの日だった。王家の生誕祭は毎年行われていたが、今年は特別な年だった。トワ王国では十六で成人となる。その半分まで来たことを祝う式典では、特別な服を着て国民に姿を披露するのがしきたりだった。いつもとは違う式典に、興奮して寝付けないのかもしれない。リヒト王子はそう思い、寝返りを打つ。
 ふと、純白で誂えられた天蓋付きベッドの傍らに、何者かが立っている事に気が付いた。仕切りのカーテンにすらっとしたシルエットの、大きい影とその半分ほどの影がそれぞれ映っている。
 不思議と恐怖は感じなかった。相手に敵意が無いことがわかっていた。それは王子の身体に流れる、強い魔力のもたらす力のおかげだった。王子は人の感情を読み取る事が出来た。
「我らが世継ぎ様」
 大きい影が、膝を付きこうべを垂れて言う。不思議な声だった。耳に慣れない音なのに、どこか懐かしい気がする。
「待て」
 もう一つの影が大きい影を制止した。薄い布を通り越して、じっと見つめられているようだった。
「魔力を感じる」
「世継ぎ様のお力は封じられている筈だ」
 影は顔を見合わせると、再び王子に視線を向けた。細く繊細な指が、カーテンの割れ目に差し込まれ、そっと開いた。
 王子はドキドキと胸が高鳴るのを感じた。それはやはり恐怖では無い。どちらかと言えば好奇心の類だった。
 彼らは誰なのだろう、何の話をしているのだろう。
 生まれた時から感じていた違和感の正体を、彼らはその答えを知っているのではないか。
 王子はたくさんの愛情を注がれて育ってきた。けれども、父母や側近の護衛は自分になにか隠し事をしているのを感じていた。理由があるのかもしれない、いつか教えてくれるかもしれない。愛情だけは紛れもない本当の愛情だったから。
 でも、拭いきれない疑心。その答えを知る時がきたのかと思うと、逃げる事も助けを呼ぶ事もせず、その侵入者を見つめる事しか出来なかった。この時を待ちわびて生まれたかのように。
「世継ぎ様の片割れだ」
 カーテンの割れ目から、青い瞳が覗いた。大きい影の声だった。
「想定していた事だ。計画通りに」
「しかし……まだ、子供だぞ」
 爬虫類のような細い瞳孔が、青い炎で燃えるように揺らいで見える。大きい影が、小さい影の言葉に動揺しているらしい。困惑している。
「決まりだ」
「……」
 小さい影の声は冷淡に突き放す。大きい影は諦めたのか、一度カーテンから手を抜き、それからカーテンを潜り、ベッドに乗り上げる。
 青い瞳に銀の髪が揺れる。端正な顔立ちの男は、二十代くらいのように見えた。
「怖くないのかい」
「怖くない」
 男の指が頬を撫でた。少し低い体温で、ひやりとする。
「眠らないのかい」
「眠くない」
 王子の短い返事に、男は微笑んだ。まるで母親のように優しい笑顔だった。
「お前はなにも悪くない。ただ、そういう運命(さだめ)なのだから、怖がらないで」
 男はそう言うと、王子の額にキスをした。そこから熱がじんわりと身体を覆うようだった。
「時が来れば腕は元に戻る」
 王子はどこか夢心地でそう聞いた。頭がぼんやりとして、左腕がきつく締め付けられるのを感じる。
 それから、焼け付くような熱が、痛みが襲った。
「あ″っーーーー」

 二つの月がともに姿を消す、真新月の夜のこと。トワ王国の城から二筋の青い光が立ち昇る。それは天まで高く、厚い雲を突き抜けて煌々と迸っていた。幻想的な光は国のどこにいても見えるほど輝いていた。
 その美しい夜は、平和だった王国を揺るがす大きな事件の日となった。
 トワ王国王家の城に何者かが侵入した。犯人は捕まっておらず、リヒト王子の左腕を二の腕から切断。壁には王子の血で文字が書かれていた。
『約束の時
真の王をお迎えに参上する』
 強いショックを受けた王子は、幸いにも命に別状はなかったが、言葉を喋れなくなってしまう。
 リヒト王子生誕八年を祝う式典の、前夜の事だった。